リコーダーの成り立ち
リコーダーの歴史~復活から現在~

イギリスでバロック音楽が復活の兆しを見せていた19世紀末、ロンドンのバイオリン教師だったアーノルド・ドルメッチという人物が、古楽器の研究に取り組んでいました。18世紀半ばに時代に取り残されてしまったリコーダーでしたが、15世紀から18世紀にかけて使われていた楽器や文献、楽譜などは残されていたのです。アーノルドは自らが収集した楽器を使い、家族とともに各地でアンサンブルを楽しんでいました。
そんな中、リコーダーの歴史の転換点ともいえる小さな大事件が起こります。ある日、一家の所有する古楽器の中の、リコーダーを運んでいたドルメッチ一家の息子の一人、カールが、一家の移動中に汽車に乗り込む際、リコーダーを駅のホームに置き忘れてしまったのです。アーノルドは手を尽くして探しましたが、残念ながらなかなか見つかりませんでした。
しかしアーノルドは、幸い古いリコーダーの資料から詳細なリコーダーの設計図を作成していました。アーノルドはその設計図をもとに、自分の手で楽器を製作し始めます。これが20世紀におけるリコーダー復活のきっかけとなったのです。

その後、ドイツのペーター・ハルランが、ハ長調の演奏が容易なジャーマン式運指のリコーダーを製作します。低い音がなりやすく、安価だったハルランのジャーマン式は大量生産が続けられ、ナチスが台頭して音楽や教育を支配するようになると、学校教育に使われるようになっていきます。
1936年、ベルリンオリンピックが開催され、その祭典の中でもリコーダーが演奏されましたが、この時、観客の中に一人の日本人がいました。当時ドイツに留学をしていた坂本良隆という人物です。彼は大勢の子どもたちが奏でるリコーダーの演奏に感銘を受け、またそこに教育的価値を見出し、ソプラノ、アルト、テナーを日本に持ち帰りました。日本にリコーダーが伝来したのはこの時です。坂本はこれらのリコーダーをモデルに日本でも制作しようと、日本管楽器株式会社(後のヤマハ株式会社)に働きかけ、製造がはじまりました。現在の日本で多くの学校の子供たちがリコーダーに親しむきっかけとなった物語は、カール・ドルメッチのうっかりから始まって、実に様々な出来事が関連しているのです。

リコーダーは現在ではもっとも広く普及している楽器の一つとなっています。しかし、その使われ方は多岐にわたっていて、学校の器楽教育で使われるのはもちろんのこと、ルネッサンス、バロック時代の音楽を当時の楽器をつかって再演するときに古楽器の一つとして加わったり、テレビや映画のBGMにも数多く使用されています。また、リコーダーのために新しく書かれた楽曲も今では数多く存在し、学校教材としての一面も持ちながら、管楽器の一員として、立派に仲間入りをしているのです。

リコーダーを吹いている様子

リコーダーは18世紀前半にはすでに完成されている楽器です。しかし一時期人々に忘れ去られてしまい、20世紀になってから、以前の姿のまま復元されました。そのためか、他の楽器とちがい、変革されずに、昔の形態がそのまま残っています。
現在でも、昔の音の方がいい、昔のような楽器をつくりたい、という想いが強くこめられ、メーカーごとに、また種類ごとに、銘器をモデルにしていることがあります。
その意味ではまさに「生きた化石」とも言うべき楽器の一つかもしれません。
ヤマハでは、デンナー※の復刻版モデルの木製アルトリコーダーや、ロッテンブルグ※の形を模したソプラノリコーダーなどを製作しています。

※デンナー、ロッテンブルグはリコーダーの銘器の製作者(メーカー)名