「だれでも第九」誕生の物語
-みんなでフロイデ!-

[ 画像 ] 「だれでも第九」誕生の物語 -みんなでフロイデ!-

3楽章
いまも昔もずっと“だれでも”。情熱に寄り添う技術と信念

一期一会の演奏に一体感を。
人工知能の一歩先を目指す

前回は3人のピアニストたちの横顔や練習風景、本番にかける意気ごみ、そして編曲・プロデュースに携わる高橋幸代さんのコメントをお伝えした(2楽章:そして練習は続く。3人の想いを「だれでもピアノ」に乗せて)。

ここで、ピアニストたちの演奏をサポートするもう一人のキーパーソンをご紹介したい。ヤマハの研究開発統括部に所属する前澤陽さんだ。

何度かふれてきたように、今回の演奏会で用いられるのは「だれでもピアノ」と呼ばれるピアノである。これはヤマハの自動演奏機能付きピアノ「Disklavier™(ディスクラビア)」に、演奏追従システムとペダル駆動装置を組み合わせたものだ。

あるフレーズを弾くと、その情報をセンサーが検知し、人の動きに合わせるかのように自動的に伴奏パートの鍵盤やペダルが動く。はたで見ていると、その光景はマジカルでさえある。

ここにはAIをはじめ演奏者をアシストする多様な技術が盛りこまれている。

人工知能合奏など音楽情報処理領域の研究を手がける前澤さんは、「だれでもピアノ」にも開発当初の段階から関わってきた。今回の「だれでも第九」では3人のピアニストの練習にも毎回立ち会って、システムの検証と改良を重ねている。

[ 画像 ] 前澤陽さん

世にも不思議な「だれでもピアノ」。これはどういう仕組みになっているのだろう? 前澤さんはこのように解説する。

「演奏する人のタイミングだけでなく、鍵盤を弾く強弱にも合わせて伴奏します。特徴的なのは、弾かれた鍵盤や演奏の速度などの情報を統合しながら、1曲の中でユーザーがどこを弾いているのか、どれくらいの強弱で弾こうとしているのかまでを分析して、対応する伴奏データを鳴らすところです。

これにより、ピアノ経験者だけでなく初心者やピアノ経験が浅い人まで、幅広い人に対しても、適切な追従が可能になります。例えば、音を少し間違えたり、鍵盤を迷ったりしても待ってくれるんです」

確かに「だれでもピアノ」は演奏者の動作を“あらかじめ読む”かのようなところがある。前澤さんの言葉を借りると「初心者の演奏にも歩み寄れる」。そこがカラオケ的な自動伴奏と異なる点だ。これによりピアノ演奏に一体感が生まれる。

「一体感」はそう簡単に生み出せるものではない。まず演奏者の努力(練習)が大切だ。自動伴奏が付くと言っても、自分のパートをその人なりに弾きこなす必要がある。

技術面でも様々なハードルがある。「だれでもピアノ」は改良を加えながらアップデートしてきた。前澤さんは“一期一会の演奏”をアシストするための、トライアルを続けている。

今回の「だれでも第九」においても、新しい技術を導入した。それは「超・低遅延発音」と呼ばれるものだ。言葉通りに解釈すれば「音の遅れを著しく低減」させる仕組み。前澤さんによると、このような機能である。

「いままでの『だれでもピアノ』では、伴奏は演奏者を聞きながら合わせてくれる。そういうシステムとしてつくっています。とはいえ、音が鳴ったことを確認してから伴奏が進行する設計である以上、どうしても遅延が生じてしまうわけです。

でも、よーいドン! で同時に鳴らしたい場面もありますからね。今回は『第九』という音楽の特徴も考慮して、新たなインタラクションを入れる必要があると思いました」

それがどのようなカラクリになっているのか? は内緒である。魔法の種明かしはこれくらいに。

いずれにせよ「だれでもピアノ」にはAIの技術が活用されている。だが、前澤さんはその1歩先にあるものを模索しているようだ。

「標準的な演奏をサポートするシステムなら、上級者や一定のテンポで弾ける人の演奏をAIに学習させることで設計することができます。しかし、初心者など、標準的な演奏ができない人のデータは、幅広い種類のミスをするため、単一の初心者という概念をAIに学習させることは困難です。すべての人が楽しめる演奏にするには、それぞれの人の弾き方に合ったサポートを用意する必要があるんです。

今回の演奏会で重視しているのは、合奏する際に個々の演奏者の強みを引き出せるよう、弱みを補うこと。3人のピアニストの練習を見ながら、それぞれどんなサポートが必要なのかを考えてカスタマイズしています。そのことでだれでもが一人で演奏できるだけでなく、ほかの人との合奏も楽しめる。そんな世界観を示せたらいいなと思います」

[ 画像 ] ピアノを調整中の前澤さん

情熱を応援しワクワクを生む
“Make Waves”という約束

この演奏会はヤマハという企業にとっての挑戦でもある。それは技術面からのサポートにとどまらない。ブランドの理念を発信するチャレンジだ。「だれでも第九」を担当するヤマハの加藤剛士さん(ブランド戦略本部)はこう話す。

「『だれでも第九』はヤマハが掲げる『Make Waves』というブランド・プロミスを具現化する取り組みでもあります。この言葉は様々な意味合いを持つものですが、究極的には『人がワクワクする』、その瞬間のことなんですね」

ブランド・プロミスとは、企業が顧客や社会に対して約束できる価値をワード化したものだ。「Make Waves」は楽器・オーディオ関連製品メーカーとして長い歴史を持つヤマハの存在意義を問い直すプロセスから生まれている。

正式には“Yamaha empowers me to make waves with my sound and music.”の一文で言い表される。音や音楽で「個性、感性、創造性を発揮し、自ら一歩踏み出そうとする人々の勇気や情熱を後押しする」という趣旨の理念である。

加藤さんはこう補足する。

「ヤマハがお届けしている楽器というプロダクトは、最初からベストな顧客体験を約束するものではないんです。音楽のワクワクというものは、まず練習して、上達して、ほかの人たちと演奏する中から生まれますよね。楽器で『自己表現』をしたいという気持ちから始まり、『自己成長』をへて『仲間とつながる』。この3つがあって楽器の価値は高まります。

ですから我々は、人に何かを『与える』とか、夢を即座に『叶える』というのではなく、寄り添ってそっと背中を押す存在なんだと。そのことで心震える体験を応援する企業でありたい。『Make Waves』は、そんな想いを言葉に表したものです」

その意味では「だれでもピアノ」はまさしく寄り添って応援する楽器だ。そして「だれでも化」は音楽が理想とするものでもある。

振り返ってみるとベートーヴェンの時代、ピアノという楽器に触れられる人の数はとても限られていただろう。それは王侯貴族の楽器だった。フランス革命の思想に影響を受けたベートーヴェンは、音楽がもっと“みんなのもの”になることを願っていた。

ピアノは江戸時代後期より日本に輸入され、明治期から国内でも生産されるようになる。当時はとてつもなく高価な製品でありながら、全国に少しずつ広まっていき、戦後は学校の音楽室などでも体験できる身近な存在となっていく。ピアノ教室に通う人の数も増え、技術の進化により電子ピアノなども普及、多くの人がピアノ演奏に親しめるようになった。

これはピアノが「だれでも化」していく大まかな流れである。ヤマハという企業は創業時よりこのウェーブを牽引してきた。それはイノベーションの歴史とも言える。

だが、「だれでも化」は完了したわけではない。身体的ハンディキャップなどが理由で、ピアノへの憧れを持っていても演奏を楽しめない人たち、最初から諦めてしまう子どもたちも存在する。「だれでもピアノ」は“だれでも”の境界をさらに広げようとしている。

「ヤマハはずっと“だれでも”なんです」

インタビューの中で加藤さんが語ったこの言葉が印象に残った。『だれでも第九』には、すでに多くの期待の声が寄せられているそうだ。

「共感の輪が大きく広がっていってることを実感しています。現地観覧(※受付終了)にお申しこみいただく際に、ひと言コメントをいただくようにしているのですが、愛に満ち溢れてるというんでしょうか、皆さんの熱い思いが伝わってきました。

現地に来られない方も、ぜひオンラインでご視聴いただきたいですね。『だれでも第九』を見て、『やっぱり音楽っていいな』って思ったり、『自分も楽器を始めてみよう』とか『しばらくやめていたけれど、もう1回やってみよう』って感じてくださる方がいたらうれしいです」

ヤマハの東奈穂さんも、担当者として、企画の立ち上げからおおよそ1年にわたり『だれでも第九』をサポートしてきた一人だ。東さんはこう話す。

「『だれでも第九』は“かつてない”といった言葉で形容されることが多いのですが、みなさんの練習を側で見ていると、その言葉は大げさではない気がします。未知に向かって本気で挑戦されているんです。その情熱や熱量に感銘を受けるというか、圧倒されるくらいです。音楽の力がそうさせているのか、“波”が起こりつつあるのを実感します」

[ 画像 ] ピアノの前で会話する東さんと田邑さん

いよいよ本番。その日が迫ってきた。12月21日。世間はすっかり年末のムードだろう。ライブのオンライン動画はだれでも視聴できる。

初めての試みだけにドキドキする瞬間もあるかもしれない。だが、3人のだれでもピアニスト、オーケストラ、合唱団が生み出すハーモニーはワクワクを届けてくれるだろう。演奏する人も聴く人も、みんなでフロイデ! すべての人に開かれた「第九」の歓びを分かち合おう。

記事:河尻亨一(編集者・作家)