この演奏会はヤマハという企業にとっての挑戦でもある。それは技術面からのサポートにとどまらない。ブランドの理念を発信するチャレンジだ。「だれでも第九」を担当するヤマハの加藤剛士さん(ブランド戦略本部)はこう話す。
「『だれでも第九』はヤマハが掲げる『Make Waves』というブランド・プロミスを具現化する取り組みでもあります。この言葉は様々な意味合いを持つものですが、究極的には『人がワクワクする』、その瞬間のことなんですね」
ブランド・プロミスとは、企業が顧客や社会に対して約束できる価値をワード化したものだ。「Make Waves」は楽器・オーディオ関連製品メーカーとして長い歴史を持つヤマハの存在意義を問い直すプロセスから生まれている。
正式には“Yamaha empowers me to make waves with my sound and music.”の一文で言い表される。音や音楽で「個性、感性、創造性を発揮し、自ら一歩踏み出そうとする人々の勇気や情熱を後押しする」という趣旨の理念である。
加藤さんはこう補足する。
「ヤマハがお届けしている楽器というプロダクトは、最初からベストな顧客体験を約束するものではないんです。音楽のワクワクというものは、まず練習して、上達して、ほかの人たちと演奏する中から生まれますよね。楽器で『自己表現』をしたいという気持ちから始まり、『自己成長』をへて『仲間とつながる』。この3つがあって楽器の価値は高まります。
ですから我々は、人に何かを『与える』とか、夢を即座に『叶える』というのではなく、寄り添ってそっと背中を押す存在なんだと。そのことで心震える体験を応援する企業でありたい。『Make Waves』は、そんな想いを言葉に表したものです」
その意味では「だれでもピアノ」はまさしく寄り添って応援する楽器だ。そして「だれでも化」は音楽が理想とするものでもある。
振り返ってみるとベートーヴェンの時代、ピアノという楽器に触れられる人の数はとても限られていただろう。それは王侯貴族の楽器だった。フランス革命の思想に影響を受けたベートーヴェンは、音楽がもっと“みんなのもの”になることを願っていた。
ピアノは江戸時代後期より日本に輸入され、明治期から国内でも生産されるようになる。当時はとてつもなく高価な製品でありながら、全国に少しずつ広まっていき、戦後は学校の音楽室などでも体験できる身近な存在となっていく。ピアノ教室に通う人の数も増え、技術の進化により電子ピアノなども普及、多くの人がピアノ演奏に親しめるようになった。
これはピアノが「だれでも化」していく大まかな流れである。ヤマハという企業は創業時よりこのウェーブを牽引してきた。それはイノベーションの歴史とも言える。
だが、「だれでも化」は完了したわけではない。身体的ハンディキャップなどが理由で、ピアノへの憧れを持っていても演奏を楽しめない人たち、最初から諦めてしまう子どもたちも存在する。「だれでもピアノ」は“だれでも”の境界をさらに広げようとしている。
「ヤマハはずっと“だれでも”なんです」
インタビューの中で加藤さんが語ったこの言葉が印象に残った。『だれでも第九』には、すでに多くの期待の声が寄せられているそうだ。
「共感の輪が大きく広がっていってることを実感しています。現地観覧(※受付終了)にお申しこみいただく際に、ひと言コメントをいただくようにしているのですが、愛に満ち溢れてるというんでしょうか、皆さんの熱い思いが伝わってきました。
現地に来られない方も、ぜひオンラインでご視聴いただきたいですね。『だれでも第九』を見て、『やっぱり音楽っていいな』って思ったり、『自分も楽器を始めてみよう』とか『しばらくやめていたけれど、もう1回やってみよう』って感じてくださる方がいたらうれしいです」
ヤマハの東奈穂さんも、担当者として、企画の立ち上げからおおよそ1年にわたり『だれでも第九』をサポートしてきた一人だ。東さんはこう話す。
「『だれでも第九』は“かつてない”といった言葉で形容されることが多いのですが、みなさんの練習を側で見ていると、その言葉は大げさではない気がします。未知に向かって本気で挑戦されているんです。その情熱や熱量に感銘を受けるというか、圧倒されるくらいです。音楽の力がそうさせているのか、“波”が起こりつつあるのを実感します」
いよいよ本番。その日が迫ってきた。12月21日。世間はすっかり年末のムードだろう。ライブのオンライン動画はだれでも視聴できる。
初めての試みだけにドキドキする瞬間もあるかもしれない。だが、3人のだれでもピアニスト、オーケストラ、合唱団が生み出すハーモニーはワクワクを届けてくれるだろう。演奏する人も聴く人も、みんなでフロイデ! すべての人に開かれた「第九」の歓びを分かち合おう。