「だれでも第九」誕生の物語
-みんなでフロイデ!-

[ 画像 ] 「だれでも第九」誕生の物語 -みんなでフロイデ!-

1楽章
その歓びをもっと“みんなのもの”に

参加する交響曲としての「第九」
分断を越え「歓び」をシェアする

ベートーヴェンによる「交響曲第九番」。世界中で愛され続ける不滅のクラシック音楽だ。日本では長らく師走の風物詩として親しまれ、12月になると全国各地で毎日のように演奏会が開催されている。

1824年、ベートーヴェン本人も総指揮者として立ち会ったウィーンでの初演、それから199年にわたって世界中で、数えきれないほどの「第九」コンサートが開催されてきた。音楽史に名を留める指揮者らが、世界的オーケストラとともに生み出してきた名演の数々も、様々なメディアを通じて楽しむことができる。

だが、このシンフォニーの魅力は“聴く"だけではない。

「第九」のもうひとつの醍醐味は“参加“することにある。学校の音楽室や講堂で「歓喜の歌」を合唱した経験がある方、地域で開催される年末の「第九」演奏会に合唱団の一員として出演することを楽しみにしている方も多いだろう。

筆者も高校時代に「1万人の第九」という、アマチュアも参加できるイベントで、合唱団に加わったことがある。そのドイツ語の意味もわからないまま一生懸命覚えた歌詞は、すでにほとんど忘れてしまっているが、何度もリフレインされる「フロイデ(歓び)」という単語だけは心の奥に焼き付いている。

そう、これは多くの人と「歓び」を分かち合う音楽なのだ。すべての人に開かれた“みんなのもの"。それが「第九」だ。現代の言葉で言うなら、このシンフォニーは「参加型のプラットフォーム」とさえ言えるかもしれない。

事実、様々な資料から「第九」の歴史を紐解くと興味深いことがわかる。

『日本の「第九」ー合唱が社会を変えるー』(矢羽々崇著)という書籍によると、我が国の「第九」演奏会では、戦前からすでに市民参加の萌芽を見ることができるようだ。

さらに歴史をさかのぼれば、ウィーンの初演でも、多くのアマチュア演奏家・声楽家が「第九」のステージに参加している。当時オーストリアは戦争の最中であり、この交響曲の演奏に必要な大編成のオーケストラと合唱団を組織するには、プロの音楽家が不足していたという。

だが、これはベートーヴェンにふさわしいエピソードにも思える。フランス革命がもたらした「自由・平等・友愛」の理念は彼がおおいに共感を寄せるものだった。「歓喜の歌」の一節でも歌われているように、音楽という魔法の力で「時代が分断したものをひとつ」にし、平和が訪れることを願ってもいただろう。

ベートーヴェンは多様な背景の人たちをフラットに迎え入れる音楽会を開催し、すべての人にその歓びをシェアしたかったのでは? そんな想像さえしてしまう。

このときの公演では、ピアノが使われたという記録も残る。プロ・アマ混成により乱れがちな合奏をひとつにまとめる役割が期待されていたようだ。

[ 画像 ] だれでも第九

200周年を前にした新たなる挑戦
3人のピアニストがデビューする

初演から200周年のアニバーサリーを翌年に控えた2023年12月21日。「第九」の歴史に新たな1ページを開こうとする演奏会が開催される。

それが「だれでも第九」だ。

この「第九」では3人のピアニストがフィーチャーされる。

3人はそれぞれのハンディを抱えている。車イスに腰掛けた状態で、あるいはベッドに横になったまま主に右手の親指を用いて演奏するピアニストも出演する。

かつてならオーケストラとの共演は難しかったかもしれない。

だが、ヤマハが開発したDisklavier™(ディスクラビア)という演奏追従システムと連携した「だれでもピアノ」のアシストを得て、かつてない「第九」が実現することになった。

「だれでもピアノ」はAI(人工知能)が、その人の演奏(テンポやフレージング)に寄り添いながら伴奏してくれる。様々な身体的制約から、自身のイメージする演奏が困難なピアニストの気持ちを高め、想いに応えるアシストツールである。

このプロジェクトでは、3人のピアニストと先端テクノロジーが、プロのオーケストラ(横浜シンフォニエッタ)、そしてプロの合唱団(東京混声合唱団)とハーモニーを奏でながら、ひとつの交響曲をつくりあげていく。

言い換えるなら「だれでも第九」は、この交響曲をこれまで以上に“みんなのもの"にする挑戦。人とAIのコラボレーションにより“包摂の響き"を生み出す試み。ある意味では、「第九」の原点に立ち戻る演奏会になるのかもしれない。

当日の演奏はリアル会場(東京・サントリーホール)とオンラインでライブ公開される。

この読み物は12月の演奏会本番を前に、多くの人に「だれでも第九」の誕生秘話、その見どころ、聴きどころをお伝えする目的で執筆されている。

当日の演奏を「みんなでフロイデ!」するための応援レポートとして読んでいただければ幸いだ。ピアニストたちの横顔紹介や練習のエピソード、演奏をサポートする技術の解説など、「だれでも第九」のバックステージへ読者をご案内したい。

[ 画像 ] Disklavier™(ディスクラビア)を楽しそうに演奏する宇佐美希和さん

いつかオーケストラと共演したい!だれでもピアニストたちの想い

まずは「だれでも第九」でのピアノ演奏に挑戦するピアニストをご紹介しよう。東野寛子さん(1楽章・2楽章出演)、古川結莉奈さん(3楽章出演)、宇佐美希和さん(4楽章出演)の3人だ。

東野寛子さんは生まれつき右手に欠指の障がいがある。大学在学中よりバレエ、ジャズダンス、声楽を学び、卒業後は会社員として働きながら、ミュージカルやダンスの舞台で活躍するほか、日本初のソーシャルサーカスカンパニー「SLOW CIRCUS」のトレーナーとしても活動している。

パフォーマーとして「TOKYO 2020」パラリンピック開閉会式のステージも経験している東野さんだが、ピアノ演奏への憧れも持ち続けており、現在も鍵盤に触れることがある。だが、右手が跳ねてしまい、思ったような演奏ができないジレンマを感じていた。

そんな東野さんにとって「だれでも第九」は、「障がいを理由に音楽を諦めず、ピアノを楽しめるチャンス」。オーケストラとの共演には緊張とプレッシャーを感じながらも練習に励んでいる。

[ 画像 ] 東野寛子さん
東野寛子さん

古川結莉奈さんは、先天性ミオパチーという筋肉の難病により、身体を動かすことが難しい。気管切開・人工呼吸器などのケアを受けており、身体を起こすと呼吸が苦しくなるため、日常の多くの時間をベッドに横になって過ごしている。

だが、彼女は好奇心旺盛な小学生だ。小さい頃から音楽が好きだった古川さんは、横になったまま右手の親指で電子キーボードを弾いていた。

2021年には「だれでもピアノ遠隔演奏実証実験」に参加している。自宅の電子キーボードを横浜市庁舎に設置されたピアノに同期し、リモートで演奏する公開音楽会だ。そのときはエルガーの「威風堂々」をみごと弾ききった。

筋力が弱く、横になったまま演奏する古川さんだが、彼女が奏でるピアノの1音1音は、とても力強く美しく響く。

[ 画像 ] 古川結莉奈さん
古川結莉奈さん

トリとなる「合唱」のパート(第4楽章)でピアノを弾くのが宇佐美希和さん。

宇佐美さんは生後まもなく脳性麻痺と診断され、両手足に障がいを持つ。歩行ができないため車いすを使用している。右手は多少動かせるが、左手には不随意運動がある。小学校2年生のとき、姉がピアノを習っている姿を見て、自身もピアノを習い始めた。

彼女は「だれでもピアノ」誕生のきっかけをつくった人でもある。

いまから8年前の2015年、筑波大学附属桐が丘特別支援学校在学中の宇佐美さんの演奏にインスピレーションを得て、東京藝術大学とヤマハが共同開発したのが、「だれでもピアノ」だった。

高校時代の宇佐美さんが「だれでもピアノ」のアシストを得て、ショパンの「ノクターン」を演奏するまでの物語は、『ひとさし指のノクターン~車いすの高校生と東京藝大の挑戦~』(新井鷗子/高橋幸代著)という書籍に描かれている。

[ 画像 ] 宇佐美希和さん
宇佐美希和さん

本書の共著者でもある高橋幸代さんは、「だれでも第九」でも編曲やピアニストたちの指導に当たっている。

東野さん、古川さん、宇佐美さんーー3人の抱えるハンディは異なるが、みんなに共通しているのは音楽とピアノが大好きなこと。そして、いつの日かオーケストラと共演したいという夢を持っていたことだ。

その夢はいま叶おうとしている。

12月21日に向け、3人はそれぞれのパートの練習にありったけの情熱を注ぎこんでいる。次回は本番への意気ごみを語る3人の声、その演奏を支える関係者のコメントをお届けしたい。

記事:河尻亨一(編集者・作家)