「だれでも第九」誕生の物語
-みんなでフロイデ!-

[ 画像 ] 「だれでも第九」誕生の物語 -みんなでフロイデ!-

2楽章
そして練習は続く。3人の想いを「だれでもピアノ」に乗せて

ピアノは楽しみであり癒し。
人と繋がる歓びもあります

10月某日午前。東京・目黒区にあるスタジオで、“だれでもピアニスト”のレッスンが行われていた。

車いすに座った宇佐美希和さんが練習しているのは、「第九」の第4楽章。合唱でお馴染みの「歓喜の歌」のメロディがピアノで紡がれていく。バックには、練習用のオーケストラ音源が流れている。

生後まもなく脳性麻痺と診断された希和さんは、両手足に障がいがある。右手は少し動かすことができる。その右手が生み出すメロディに「だれでもピアノ」が追従伴奏する。つまり、自動演奏で左手パートをアシストする。

これは不思議な光景だ。じっと見ているとピアニストの隣にもう一人、“見えないだれか”が寄り添って、一緒に演奏しているかのような錯覚にとらわれる。

ピアノを弾く希和さんの表情は真剣そのもの。

右手の演奏についてくる見えない左手の音を聴きながら、その追従演奏に励まされるように、また右手の指を動かす。まさに人とAIの協働作業。1音1音に持てる集中力を注いでいる。

見ると希和さんの楽譜はカラフルに彩色されていた。

「頭を整理するため、パートごとに色分け」しているのだという。ピアノ演奏を始めておおよそ10年。音を視覚的に捉えることを得意とする希和さんが編み出した独自のスタイルだ。

今回の演奏会にはどんな気持ちで臨もうとしているのだろう? 希和さんはこう話す。

「『第九』はワクワクする曲、歓喜のメロディが好きです。私にとってピアノは、楽しみであり癒し、いろんな人たちとのつながりの手段でもあります。ピアノを通じて、(高橋)幸代先生や(新井)鷗子先生はじめ、多くの方々との出会いがありました」

前回の記事「その歓びをもっと“みんなのもの”に」でもご紹介したが、いまから8年前の2015年、筑波大学附属桐が丘特別支援学校在学中の希和さんの演奏にインスピレーションを得て、ヤマハと東京藝術大学が共同開発したのが「だれでもピアノ」だった。

高校時代の希和さんが「だれでもピアノ」のアシストを得て、ショパンの「ノクターン」を演奏するまでの物語は、『ひとさし指のノクターン~車いすの高校生と東京藝大の挑戦~』(新井鷗子/高橋幸代著)という書籍に描かれている。

希和さんは「だれでもピアノ」との付き合いが長い。彼女にとってこれはどんな“楽器”なのか? 練習がイヤなときはないのか? それについても質問してみたところーー

「障がいがあっても、それを補って自分のペースで弾けるところがいいと思います。練習がイヤなことはあまりありません。

やる気を出すためのコツは、永杉理惠先生(※希和さんが中学時代から指導を受けている教諭)がつくってくださった演奏動画を見ること。永杉先生のご自宅とリモート練習、目黒での練習に加えて動画を見て復習しています」とのことだった。

「だれでもピアノ」は豊かな音楽体験をもたらしてくれるツールではあるが、人が努力しないとAIも応えてはくれない。今日も「1人2時間×3」のレッスンが行われている。

ふと、ピアノの音が途切れた。練習用のオーケストラ音源も止まる。集中力が切れたのだろうか? 希和さんはあるフレーズにうまく入れず苦心していた。

「希和さん、ここ、入るのよく忘れるから気をつけてね。疲れた? 休憩する?」

そう声をかけたのは高橋幸代さん。「だれでも第九」の音楽プロデュースと編曲に携わる高橋さんは、3人の出演ピアニストの演奏指導にも当たっている。

高橋さんの呼びかけに、希和さんは笑顔でこう応じた。

「はい、そろそろ糖分入れなきゃ!」

そこで“もぐもぐタイム”となった。先生、生徒、サポートスタッフ交えて歓談する、もうひとつの「フロイデ!」なひとときだ。

[ 画像 ] 高橋幸代さんと宇佐美希和さん

何が正解かはわからない。
想いと個性を生かしたい

このスタジオでは夏頃から、おおよそ2週間に一度、こんな練習の光景が繰り広げられてきた。

3人の“だれでもピアニスト”は自宅で、人によっては個人レッスンの先生にもついて、日々練習を重ねているのだが、この定例練習日には高橋さんに進捗状況を見てもらう。

高橋さんは毎回のレッスンに立ち合い、それぞれの身体的ハンディを持つ奏者に、もっともふさわしい楽譜を探りながら編曲をアップデートする作業を続けている。

難易度が高すぎては演奏できない。しかし、簡単ではチャレンジにならない。どの部分を人が弾き、どの部分をシステムに委ねるか。オーケストラや合唱が入ったときにどう聴こえるか。

初めての試みだけに、そのあたりの兼ね合いを見極めるのが難しい。

高橋さんはこう話す。

「まだ、わからないですね、いったい何が正解なのか。試行錯誤が続いています。例えば、希和さんが弾くのは4楽章ですから、声楽のパートをピアノに取り入れながら、華やかさや重厚さを出していくにはどうしたらいいだろう? と。

一方で、彼女はショパンの『ノクターン』やサティの『ジムノペディ』のような叙情的な曲が好きで、これまでも演奏してきていますから、メロディをゆったり奏でる部分や、印象派的な色彩も少し加えられないかな? と思ったり」

1楽章・2楽章を演奏する東野寛子さん、3楽章を演奏する古川結莉奈さんのパートに関してもピアニストの希望や個性をふまえた高橋さんのプランがある。

「結莉奈さんは鍵盤を強く弾くことが難しいのですが、1音で物語を紡ぐような演奏をします。そこで3楽章はゆっくり静かに、間を生かしながらメロディを立たせるようにしました。結莉奈さんが奏でる1音から、キラキラした星空が描かれていくような部分も作りました。」

今回の「だれでも第九」では、高橋さんが関わってきた、いままでの「だれでもピアノ」の編曲から進んだ手法も取り入れているという。その試みは東野寛子さんが演奏するパート(1・2楽章)で聴くことができる。

「これまでは、人間が演奏するメロディを生かしつつ華やかな伴奏をつけて、両手でピアノを弾いているような達成感、低音、高音から両手で包みこまれるような幸せな気持ちになれる、そんな編曲を目指してきました。これは連弾的アプローチと言えます。

一方、東野さんの場合、両手で演奏しますから、そのためのピアノパートをつくり、自動伴奏はあくまで右手の2本の指を補うシンプルなサポートに徹しています」

「シンプルなサポート」と言うが、ここにはチャレンジが秘められている。東野さんの右手と左手、さらに自動伴奏が三位一体となって自然と響き合う緻密な編曲(伴奏プログラミング)がされているようだ。

高橋さんはこう言う。「東野さんにとって大きな挑戦と言えます。伴奏が人間の演奏にぴたりと追従するだけでなく、人間も自動伴奏との緻密なアンサンブルをする必要がありますから」

こうした編曲と演奏のプランは高橋さんと3人のピアニスト、そしてヤマハの技術スタッフが練習のたび、対話を重ねてつくり上げてきたものだ。

「だれでも第九」はその名の通り、ベートーベンの交響曲を演奏するイベントだが、人それぞれの身体的ハードルや技量、ピアノの経験年数ーーそんな多様性に向き合いながら、この名曲を再構築するプロセスが入っている。

つまり、3人3様のアプローチと編曲のこだわりも聴きどころとなる。

「目の前にいる人の想いや個性を生かしながらのサポートを心がけています」と話す高橋さん。かつてない取り組みへの緊張やプレッシャーは大きいだろう。

しかし、彼女はいまから8年前、東京藝術大学とYAMAHAが共同で「だれでもピアノ」を開発した当初から、今回の第九プロジェクトでもスーパバイザーを務める新井鷗子さんとともに、一連の企画に携わってきた。

ピアニストたちが持てる力を発揮できれば、ちゃんと想いの伝わる演奏会になる。そんな信念を持っていることが、話の端々から感じられる。高橋さんにはこんな目標もある。

「今回はオーケストラや合唱との共演ですから、ピアノ奏者と自動伴奏だけでなく、全楽章を通してピアノとオーケストラ、合唱との関係性を意識し、『第九』という音楽を通して、それらがひとつになることを目指して編曲しています」

人と新しい技術が一体となって「どんな響きを共に創るか」。シンフォニーをより聴きごたえあるものにするためのトライアルは演奏会本番まで続く。

ピアニストたちも目下全力で練習に取り組んでいる。高橋さんは話す。

「私がここは難しいかな? と思って、弾きやすくしようとすると、なんとか自分で頑張りたいって言うんです。それは3人に共通の反応ですね」

“正解”は本番にその姿を見せるだろう。

[ 画像 ] 高橋幸代さん

弾いていると優しい気持ちに。
ふわふわキラキラの第3楽章

お昼過ぎ。宇佐美希和さんの練習が終わるのと入れ違いに、ストレッチャーに横たわった古川結莉奈さんがスタジオ入りした。

準備運動だろうか。ピアノの前に行くと、結莉奈さんはまるでダンスをするかのように、左右の腕を上下にゆっくり動かしている。

「結莉奈ちゃん、何してるの?」

高橋さんにそう聞かれると、「上げてる!」と元気よく答える。レッスンに向けて気持ちを高めているのだろう。

結莉奈さんは小学5年生。先天性ミオパチーという筋肉の難病により、身体を動かすことが難しい。気管切開・人工呼吸器などのケアを受けており、身体を起こすと呼吸が苦しくなるため、日常の多くの時間を横になって過ごしている。

だが、好奇心旺盛な結莉奈さんはじっとしているわけではない。様々なデジタルツールを駆使して、いろんなアクティビティを楽しむ現代っ子だ。

例えば、分身ロボットの「OriHime(オリヒメ)」。

スマホやPCで遠隔操作できるロボットを使ってリモート授業や社会見学に参加するだけではなく、あちらこちらに顔を出しては、キッチンカーで売り子さん体験をしたり、プラネタリウムイベント「ゆりナイト」をプロデュースし星空解説したりしている。

結莉奈さんは、星や宇宙が大好きな天体少女。天文宇宙検定3級を目指して勉強している。なぜ星が好きなのかを尋ねてみたところ、こんな答えが返ってきた。

「星はキラキラしてきれいだから好きです。いちばん好きな惑星は天王星です。いつか天王星に会いたいです。天王星は横倒しになっていて、ベッドで横に寝ている私と同じです。英語ではユリナス(URANUS)と発音するそうです。星座は88あって、ピアノの鍵盤も88で同じなので、星座で楽譜をつくりたいです」

メタバースではいろんなワールドに遊びに行き、蝶のように飛んだり海に潜ったり、フレンドたちとの交流を楽しんでいるという。音楽も好きで、幼い頃から片手で電子キーボードを弾いていた。

2021年には「だれでもピアノ遠隔演奏実証実験」に参加している。自宅の電子キーボードを横浜市庁舎に設置されたピアノに同期し、リモートで演奏する公開音楽会だ。そのときはエルガーの「威風堂々」を弾ききった。

今回、挑戦する「第九」に関してはこんなイメージをふくらませている。

「私が演奏する第3楽章はゆっくり。ふわふわのベッドに寝てリラックスしながら、キラキラのお星さまのかけらでできたお花の上で、お友だちと遊んでいる夢を見ているようなイメージです。弾いていると優しいあたたかい気持ちになります。コンサートでも聴いてくれる人にそう感じてもらえたらいいなと思います。

ほかの人たちが弾くパートも聴いています。第1楽章は力強く、第2楽章は迫力があり、途中のメロディは踊りたくなっちゃいます。第4楽章の『歓喜の歌』は大好きでよく歌っています」

希和さんと同じく、結莉奈さんの練習も真剣そのもの。ゆったりした演奏だが、1音の純度が高く、全身で音楽を感じさせる。「だれでもピアノ」については、こんな感想を持っているようだ。

「伴奏ができて弾きやすくなったし、間違えても待っていてくれるので、優しくてうれしい。だからすごく頑張って弾いています。ピアニストになれた気分になるから楽しいです」

[ 画像 ] 高橋幸代さんと古川結莉奈さん

普通にピアノを楽しめる。
そんな機会がほしかった

夕方、東野寛子さんのレッスンの時間になった。

東野さんは生まれつき右手に欠指の障がいがある。大学在学中よりバレエ、ジャズダンス、声楽を学び、卒業後は会社員として働きながら、ミュージカルやダンスの舞台で活躍するほか、日本初のソーシャルサーカスカンパニー「SLOW CIRCUS」のトレーナーとしても活動している。

ピアノ演奏への憧れは持ち続けていたが、機会にはこれまで恵まれなかった。そんな東野さんにとって「だれでも第九」は、「障がいを理由に音楽を諦めず、ピアノを楽しめるチャンス」である。と同時に、「オーケストラとの演奏というプレッシャー」を感じながらの練習にもなっている。

「だれでも第九」では3人の中でひとり、2つの楽章を担当するだけでなく、両手で演奏することになる。

ピアノはほぼビギナーであると考えると、演奏の難易度は高いと言えるだろう。

練習を見学していると、リズムに苦戦するパートがあるようだ。音符・休符のこみ入ったパッセージになると指の動きが思うようについていかないことがある。だが、東野さんにへこたれる様子はない。

「もう1回お願いします!」

高橋さんに声をかけ、何回も同じところを繰り返す。練習を重ねるうちに、東野さんの指の動きと「だれでもピアノ」の伴奏、練習用のオーケストラの音源が少しずつシンクロし始める。

その一部始終を見ていると「人間ってすごい」と、ふと思う。合わなかった音が合わさっていくその感じが心地いい。

練習や今回のチャレンジについて、東野さんは自身の思いをこう語った。

「私、もともとリズム音痴なんです。だから、からだに入るところを探してるっていうのか、まずは何回も繰り返さないと。家ではメトロノームを使ってひたすらカチカチと、正確に弾けるように固めていこうとしています。

ピアノはやっぱり難しいですよね。歌やダンスの場合は、インタラクションが分かりやすいというか、お客さんの反応を見ながらこっちも乗っていけるところがありますから。もうちょっと余裕が出てきたら、通じる部分が見つかるような気もします。ピアノ演奏もある種のパフォーマンスだと思うので、そこまで行けたらいいですね。

でも、私の場合、聴いてくださった方から『普通だね』と言われたら、個人的にはもう大成功です。『上手だね』ではなくて。ピアノの演奏を“普通”に楽しめる。そんなチャンスがあったらなあ、と前から思ってましたから」

東野さんにとって「普通」という言葉には特別の意味がありそうだった。

中学のときトランペットを吹きたかったが、右手のことがあり断念せざるをえなかった。バイオリンは長くやっていたが、ピアノを弾きたいという想いを持ち続けていた。そんな彼女にとって“普通”にピアノを演奏できることは、何にも替え難い歓びなのかもしれない。

だれかのサポートがあれば“普通”を実現できる。東野さんはかつてそんな経験をしたことがあるという。

「中学のとき、吹奏楽部を諦めてソフトボール部に入ったんですけど、最初の頃、グローブが悩みだったんですよね。私の手だと走ったりするだけでスルッと抜けてしまう。速い球を捕ったときもグローブがボールに持ってかれちゃうんです。

そしたらあるスポーツ用品メーカーの方が、いろんな工夫をして特注のグローブを開発してくださって。もちろん、自分で握力をつける努力もしたんですけど、そのグローブのおかげでソフトボールを続けることができました。私にとって『だれでもピアノ』もそういうものかもしれません」

「だれでも第九」に出演する3人のピアニストにはそれぞれの物語がある。本番に向けての練習は続く。

[ 画像 ] 高橋幸代さんと東野寛子さん

記事:河尻亨一(編集者・作家)