未来へ遺す、一台の修理──港区指定文化財「日本楽器製造株式会社製初期グランドピアノ」修理プロジェクト – 文化

未来へ遺す、一台の修理──港区指定文化財「日本楽器製造株式会社製初期グランドピアノ」修理プロジェクト

およそ120年前、日本の西洋楽器製造の黎明期に誕生した一台のグランドピアノが、2026年5月1日に、東京都港区立郷土歴史館で展示再開されました。港区指定文化財「日本楽器製造株式会社製初期グランドピアノ」。長い歳月の中で大きく傷みが進んだこの楽器に対し、港区の依頼により、製造元のヤマハ株式会社(以下、ヤマハ)と文化財修復を専門とする東京藝術大学が手を携え、「未来にどう遺していくのか」を重視した2年に及ぶ修理を行いました。本記事では展示再開に至るまでの修理の軌跡を紹介します。


  1. 明治期のグランドピアノを遺すプロジェクト発足
  2. 皇族、港区民に愛されたピアノ
  3. 音を奏でるのではなく、文化財として未来に遺す選択
  4. 文化財に向き合う、2つの技術
  5. 漆と静かに対話を重ねる修理
  6. このピアノが教えてくれる事実
  7. 2年越しに日の目を浴びたピアノ
  8. 港区立郷土歴史館について
  9. 内国勧業博覧会について

明治期のグランドピアノを遺すプロジェクト発足

港区立郷土歴史館に佇む一台の楽器がある。全体を黒漆塗りとし、側面には金平蒔絵で鳳凰や尾長鶏などの文様、金属フレームには菊唐草模様が描かれており、曲線美が光る譜面台や脚部など、豊かな装飾性が特徴的なピアノである。

これは、日本楽器製造株式会社(現・ヤマハ)が1903年に製造した最初期のグランドピアノ。長い年月、皇族と港区民に守り継がれてきたこの楽器は、日本国内におけるピアノ産業史を彩るだけでなく、港区が近代への歩みを進めた時代を見守ってきた存在でもある。

その価値が認められ、2002年1月に港区の有形文化財として登録、2022年10月には有形文化財に指定された。しかし、120年以上の歳月は楽器にも確実に影を落とし、その保存状態は決して良いものとはいえなかった。文化財として未来に遺すためには、専門的な修復が欠かせなかった。そこで立ち上がったのが、製造元であるヤマハと文化財の保存・修復を専門とする東京藝術大学大学院 保存修復工芸研究室(以下、東京藝術大学)による共同修理プロジェクトだった。

[写真] 港区立郷土歴史館に展示されたピアノ
港区立郷土歴史館に展示されたピアノ

皇族、港区民に愛されたピアノ

ヤマハは1900年よりアップライト、1902年にはグランドピアノの製造を開始する。このピアノはまさにその時代に製造された一台である。1903年、第五回内国勧業博覧会*1に出品されたのち、昭憲皇太后のお買上となり、貞明皇后に贈られたものであることが確認*2されている。その後、当時の氷川小学校が昭和5(1930)年の校舎建て替えの際に、同校の向かいにあった貞明皇后の実家である九条家から「皇太后使用のピアノ」として寄贈を受けた。

皇室ゆかりのピアノは、こうして地域の財産となり、子どもたちの学び舎で長く愛され続けた。氷川小学校閉校後、跡地に建設された港区立特別養護老人ホームサン・サン赤坂で長らく展示。文化財への指定をきっかけに2023年、郷土歴史館へ移設された。

[写真] 昭和10年代、氷川小学校でピアノを囲む子どもたち(港区提供)
昭和10年代、氷川小学校でピアノを囲む子どもたち(港区提供)

音を奏でるのではなく、文化財として未来に遺す選択

「修理」と一口に言っても、そのあり方は一様ではない。内部をオーバーホールし、再び演奏可能な楽器として甦らせることを目的にすることもあれば、外観を製造当時の姿に近づけるため、徹底した復元を行う考え方もある。目的が異なれば、取るべき手段も自ずと変わってくる。

本ピアノの修理方針を検討する場には、港区教育委員会、東京藝術大学、ヤマハのピアノ開発チームに加え、音楽学・楽器学の研究者や楽器修復を専門とする技術者など、多岐にわたる分野の専門家が集まった。それぞれが知見と経験、そしてこのピアノへの情熱を持ち寄り、幾度となく議論が重ねられた。調査を進めると、漆塗装の劣化、木部の破損や欠損、パーツの消耗が随所に見られた。さらに過去に施された数々の修理の痕跡などが、このピアノが長い年月を歩んできたことを物語っていた。

まさに満身創痍な状態にあるピアノを、どう修理していくのか──その議論の中心にあったのは、明治時代という日本の大きな転換点の象徴ともいえるこのピアノを、「文化財」としてどう後世に手渡すか、ということであった。欧米の文化を取り込み、日本の知恵と技術で産業と文化の発展に寄与しようとしていたことを継承するために、最終的に選ばれたのが、文化財修理の原則に基づく「現状保存修理」である。見た目を美しく整えることや、機能を取り戻すことを目的にするのではなく、状態を可能な限り尊重し、これ以上の損傷を進行させないようにすること。そして、将来再び修理できるよう「修理可能な状態」で残していくことを目指す方針だ。

ピアノの漆塗りの外装に現代の化学塗料を使えば、鏡のような輝きは取り戻せるだろう。弦やハンマーを交換すれば再び音を奏でることもできるだろう。しかし、こうした修理をすれば、このピアノが宿してきた歴史や文化財としての価値を損なうことにもつながってしまう。

120年という時間が刻んだ痕跡をあえて消さない——。維持に支障をきたさない限り、なるべく当初の部品・部材は取り替えず、安全のため損傷している箇所を補修し、補強と保全に徹することを方針として定めた。

文化財に向き合う、2つの技術

ピアノは、およそ8,000個ものパーツから構成される精密な楽器である。今回の修理では、その複雑な構造を踏まえたうえで、修理内容ごとに役割分担がなされた。ピアノ本体や譜面台、アクション、ペダルといったピアノの構造・機構に深く関わる部分はヤマハのピアノ開発チームが担当。一方、屋根や脚部の木部の修理、ピアノ全体の漆修理は、東京藝術大学大学院 文化財保存学の松本達弥先生のチームが担った。

文化財修理においては、強度が高いという理由だけで、現代の合成接着剤の使用を選択することはしない。強度が高くても、将来的な再修理が困難になったり、化学成分が文化財を傷めたりする恐れがあるからだ。近年では「可逆性(元の状態に戻せること)」と「長期安定性」を重視し、より原材料と適合性の高い伝統的な天然素材が用いられるようになっている。今回は生漆と小麦粉を練った天然の接着剤である「麦漆」を使用。松本先生からの手ほどきを受けながら、ピアノ製造と文化財修理それぞれの専門性を連携させて修理が進められた。

[写真] ヤマハ掛川工場にて。東京藝術大学の松本達弥先生(左から2人目)とともに修理作業の確認を行うヤマハスタッフ
ヤマハ掛川工場にて。東京藝術大学の松本達弥先生(左から2人目)とともに修理作業の確認を行うヤマハスタッフ
[写真] 麦漆の作り方・使用方法をレクチャーする松本先生
麦漆の作り方・使用方法をレクチャーする松本先生

各パーツの大きな欠損が見られる箇所については、安全面を考慮したうえで、なるべく当時のものに近い材料を用いた補木を施した。譜面台の亀裂や浮きも麦漆で接着。また過去の修理で生じたとみられる不要な穴や、製造年代を考えると使用されるはずのないプラスネジも確認された。こうした部分は、可能な限り当初の仕様に立ち返る形で埋木を施し、マイナスネジへの交換を行った。一方、弦やハンマー、フェルトなどは取り替えることなく、さびや埃などの汚れなどを除去するクリーニングにとどめている。

[写真] 大きく欠損したペダル箱の底板
大きく欠損したペダル箱の底板
[写真] 麦漆で木材を接着
麦漆で木材を接着
[写真] 成形された底板。補木を行った場所は将来にも補修履歴が分かるよう、本来の高さよりも0.5mmほど薄く成形。このあと東京藝術大学により漆が塗装された
成形された底板。補木を行った場所は将来にも補修履歴が分かるよう、本来の高さよりも0.5mmほど薄く成形。このあと東京藝術大学により漆が塗装された
[写真] 譜面台の浮き
譜面台の浮き
[写真] 譜面台の亀裂
譜面台の亀裂
[写真] 麦漆を流し込んで接着
麦漆を流し込んで接着

ただし、このピアノは「状態の良くない形で安定」しているという、文化財ならではの繊細な状態にあった。安易にネジを緩めたり、大きく分解したりすると、長年固定されていた木部内部に動きが生じ、新たな破損を招く恐れもあった。

そのため作業は慎重を極めたが、2024年7月からスタートした当社の修理作業は、2025年3月に無事完了。修理したピアノは港区立郷土歴史館に届けられ、次のステップ「漆修理」に向けて東京藝術大学チームに引き渡されたのである。

[写真] 港区立郷土歴史館のバックヤードに設置された漆修理作業場に納品
港区立郷土歴史館のバックヤードに設置された漆修理作業場に納品

漆と静かに対話を重ねる修理

本ピアノの漆修理は、表面の華やかさを取り戻す作業ではない。むしろその逆で、当時の職人の技術が込められた筆使いを残しながら長い時間の中で劣化していった塗膜を、静かに延命させるためのものである。東京藝術大学の作業は、まず徹底したクリーニングから始まった。表面に蓄積した埃や汚れなどを取り除き、漆本来の状態を見極めるための工程である。毛棒で慎重に埃を払い、純水を含ませた不織布や綿棒で少しずつ汚れを拭き取っていく。状態によってはアルコール系溶剤や重曹水を使い分けるが、塗膜の薄い箇所や蒔絵の周辺では、わずかな摩擦が意匠そのものを傷つけかねない。どこまで落とし、どこで手を止めるのか。常に繊細な判断が求められた。

[写真] 毛棒を使って埃を取り除く松本先生
毛棒を使って埃を取り除く松本先生
[写真] 蒔絵の部分は細い綿棒を使用した
蒔絵の部分は細い綿棒を使用した

全体の汚れを取り除いたあとに行われたのが「漆固め」である。これは、劣化したり、微細なひび割れが生じたりした塗膜に、希釈した漆を浸透させることで状態を安定化させる作業だ。筆で漆を塗り、不織布で余分を丁寧に拭き取る。この工程は一度だけではなく、塗膜や蒔絵の状態を見ながら漆の濃度を調整し、ピアノが漆を十分に吸うまで繰り返し続けられた。さらに亀裂や欠損が生じた箇所には、麦漆に木粉や珪藻土などを混ぜたコクソ下地を充填することで、構造を内側から補強し、これ以上の劣化が進行しないよう処置された。

[写真] 筆で漆を塗る作業
筆で漆を塗る作業
[写真] 漆の拭き取り作業
漆の拭き取り作業

漆を塗る。拭き取る。硬化を待つ——。1年以上をかけて、繰り返し行われた作業の中で、ピアノの漆は静かに落ち着きを取り戻していった。当時の輝きを取り戻すためではなく、これ以上失わせないために。東京藝術大学による漆の修理は、時代の流れに寄り添う仕事となった。

[写真] 修理前のピアノ側面
修理前のピアノ側面
[写真] クリーニングと漆修理が施されたピアノ側面
クリーニングと漆修理が施されたピアノ側面

このピアノが教えてくれる事実

両者は「現状保存修理」の方針に基づき、必要以上の作業は行わなかった。それでも、その過程で多くの発見があった。その一つが、鍵盤の動きを弦へと伝えるアクション部――いわば「ピアノの心臓部」に記された、当時の海外メーカーの刻印である。輸入品を使用していたことから、明治期のヤマハ、ひいては日本はまだ、この複雑な機構を製作できる段階には至っていなかったと考えられる。同様に、ペダルや弦といった金属部品についても、輸入品が用いられていた可能性が高いだろう。さらに、アクションや鍵盤を載せる台となる筬(おさ)には、製作者のものだろうか、人名のサインも見つかった。

[写真] アクション部に刻印されたドイツの「L.ISERMANN HAMBURG」
アクション部に刻印されたドイツの「L.ISERMANN HAMBURG」
[写真] 筬の右上にサインが書かれている
筬の右上にサインが書かれている
[写真] N, Yamahaと読めるサイン
N, Yamahaと読めるサイン

弦を支える金属フレームには「YAMAHA PIANO Co.」の文字が刻まれていることから、鋳造時、金属を流し込む型にあらかじめ彫り込まれていたはずである。一体、どこで作られたものなのか。山葉寅楠は1899年に渡米し、ピアノ生産に必要な機械や部品を購入*3しており、翌1900年から製造したアップライトには、このときに発注したフレームを使用している可能性が高いことが分かっている。しかし、本ピアノのフレームについては、輸入したものなのか、浜松周辺で作ったものなのかは、残念ながら確認できていない。当時の浜松は織機産業が発展しつつあり、大型鋳造の技術基盤が整い始めた時期でもある。だとすれば、このフレームが国内で生まれていた可能性も決して否定できない。

[写真] 金属フレームに刻まれた「YAMAHA PIANO Co.」
金属フレームに刻まれた「YAMAHA PIANO Co.」
[写真] 鍵盤蓋の裏には筆記体で「Yamaha co.,」が描かれた跡も確認できる
鍵盤蓋の裏には筆記体で「Yamaha co.,」が描かれた跡も確認できる

この他にも、外装の塗装に「漆」を使用しているが、当時の浜松で漆の塗装を行うことが可能だったのか。ピアノの側板に使用される大きく厚い木材を曲げる技術があったのか。このピアノをどのように組み立て、漆を塗装したのか——。こうした疑問は、浜松の楽器製作の歴史だけではなく、日本の産業史研究の糸口になるに違いない。現にある研究者*4は、このピアノの漆塗装をきっかけに調査を進め、浜松に漆工房があったことを突き止めた。今では知られていない浜松の漆産業の一端を明らかにしたのである。これからもこのピアノをきっかけに、さまざまな史実が解明されていくことが期待される。

2年越しに日の目を浴びたピアノ

ピアノ修理プロジェクトがスタートしてからおよそ2年後の2026年5月1日。修理を終えたグランドピアノは、同館の展示室に戻り、再び来場者の前に姿を現した。漆塗りされた工芸的な美しさがひときわ存在感を放つ。楽器として音を奏でることはないものの、その沈黙の中にこそ、明治の博覧会を経て、皇室にわたり、学校で子どもたちを見守ってきた日々を感じることができる。そしてこれからは文化財として、港区の歴史や明治期の日本のものづくりの産業史の記憶を、来場者に語り続けていくのである。

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港区立郷土歴史館について

自然・歴史・文化をとおして港区を知り、探求し、交流する拠点となる施設。建物は、1938年に竣工した旧公衆衛生院の姿を保存している。本ピアノは2階コミュニケーションルーム横の旧図書館長室に展示中(常設)。

所在地:東京都港区白金台4-6-2 ゆかしの杜内
入館料:無料
開館時間:午前9時~午後5時(土曜日のみ午後8時まで)
休館日:毎月第3木曜日(祝休日等の場合は前日)、年末年始(12月29日~1月3日)
[写真] 港区立郷土歴史館
港区立郷土歴史館

内国勧業博覧会について

明治政府が国内産業の発展を図るために開催した博覧会のこと。1890(明治23)年に東京・上野で開催された第三回内国勧業博覧会は、会場内にはじめて路面電車が走ったことで話題となり、西洋楽器もヤマハの創業者・山葉寅楠による風琴(オルガン)をはじめ、各者から出品されるようになった。1903(明治36)年に大阪で開催された第五回内国勧業博覧会では、アメリカ製の自動車が出品され、新しい時代を強く印象付けた。ヤマハ(当時、日本楽器製造株式会社)が出品したオルガンは一等賞、ピアノは三等賞と高い評価を得た。このピアノも日本で認められ、世界でも日本の産業が認められていくきっかけとなったものといえる。


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