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音楽ライター記事

ライター:山崎│配信日:2015年1月29日│配信テーマ:洋楽  

【インタビュー】ジョン・ハイズマン、コロシアムIIと今後の活動を語る<後編>


ブリティッシュ・ロックのベテラン・バンド、コロシアムのドラマー、ジョン・ハイズマンへのロング・インタビュー。前編「ジョン・ハイズマン、コロシアム最後のアルバム『タイム・オン・アワ・サイド』を語る」に続いて、後編では彼が1974〜1978年、ゲイリー・ムーアやドン・エイリーらと結成していた伝説のバンド、コロシアムIIの秘話を明かしてもらった。

また、2015年2月28日、ロンドンでのライヴを最後にコロシアムとしての活動を停止した後についても、ジョンは語ってくれた。

●1974年、コロシアムIIは当初“ゴースト”というバンド名になる筈だったと、あちこちの資料で見かけますが、ゲイリー・ムーアは「そんな話は知らない!」と言っていました。実際のところはどうだったのでしょうか?

いや、ゲイリーも当然、新バンドの名前がゴーストになると知っていたよ。ただ、ゴースト名義でライヴやレコーディングを行うことは一度もなかったから、彼も忘れていたのかも知れない。ゴースト名義ではどのレコード会社とも契約することが出来なくて、その後“ジョン・ハイズマンズ・ゴースト”というバンド名を提案した人もいたけど、それにはゲイリーが納得しなかった。余談だけど、コロシアムも結成当初は“ジョン・ハイズマンズ・コロシアム”という名義だったけど、半年後、“コロシアム”にしたんだ。…それはともかく、『ブロンズ・レコーズ』社長のジェリー・ブロンが「“コロシアムなんとか”というバンド名にしたら契約するよ」と言ってきた。それでコロシアムIIと名乗ることにしたんだ。私以外はメンバーも異なっていたし、本当はコロシアムIIと名乗りたくはなかった。あくまでビジネス上の理由だったんだ。

●ゲイリーはコロシアムIIのベルギー・ツアー中に「パリの散歩道」を書いて、それをソロ名義で発表しましたが、全英チャートのトップ5入りを果たしたことを考えると、コロシアムIIでレコーディングすればよかった!…と考えたりしませんか?

ゲイリーはコロシアムIIにいた頃に「パリの散歩道」を書いたのかも知れないけど、当時私は聴いたことがなかったんだ。リハーサルやサウンドチェックで弾くこともなかったし、私があの曲を聴いたのは、彼がソロ・アーティストとしてレコーディングしたときが初めてだったよ。まったく知らなかった。ただ、彼と私は喧嘩別れしたわけではなく、常に友好的な関係だった。ゲイリーがコロシアムIIを脱退して数年間は、私が彼の経理面の面倒を見続けていたんだ。それぐらい私のことを信用してくれたんだよ。

●ゲイリーのソロ・アルバム『バック・オン・ザ・ストリーツ』(1978)の初期盤ではゲイリーとガールフレンドが作曲クレジットで載っていましたが、それはどういう事情だったのでしょうか?

詳しいことは覚えていないけど、そのガールフレンドの名前はジャケットには載っていても、楽曲の出版契約には入っていなかったんじゃないかな。印税はちゃんとゲイリーに支払われていた筈だ。

●ゲイリーはコロシアムII脱退後、シン・リジィに加入しますが、アルバム『ブラック・ローズ』(1979)を発表した後にリーダーのフィル・ライノットと揉めてツアーを中途離脱するなど、突発的な行動をすることがありました。コロシアムII時代の彼は大人しかったのでしょうか?

ゲイリーに“大人しい”という表現は当てはまらないよ。彼は自由な魂を持っていたし、自分がプレイしたいと心の奥底から望む音楽以外はプレイしなかった。コロシアムIIで彼は当時、自分が望んだ音楽を追求することが出来たし、私たちはバンドとしてうまく行っていた。大きな問題だったのは、コロシアムIIはまるで金を稼げなかったんだ。

●ゲイリーもよくコロシアムIIの貧乏話はしていましたね。

初代コロシアムやテンペストほどの成功を収めることが出来ず、ツアーの費用をまかなうのも難しいほどだった。私たちのようなスタイルの音楽がビジネスとして成り立っていたのは1966年から1973年ぐらいだったんだ。音楽リスナーは新しい音楽を歓迎していた。レコード会社のボスはそんな音楽を理解できなかったけど、枚数が売れさえすれば、ミュージシャン達に自由にやらせていたんだ。でもミュージシャンに任せていたら、まるで売れないレコードを作るリスクもあった。それで1970年代の中盤になって、レコード会社が音楽性のコントロールを奪い返して、ディスコなど“大量生産できる”音楽をプッシュするようになったんだ。それでコロシアムIIみたいな自由なバンドは、ビジネスとして立ちゆかなくなった。私がホーム・スタジオを建てたのは、それも理由のひとつだったんだ。高いスタジオ代を払わずとも自分の音楽をプレイ出来るし、他のアーティストに貸すことで収入にもなったからね。

●何故コロシアムIIのツアーにそんなに費用がかかったのですか?

1970年代には、コンサート会場にPA機材や照明機材があるとは限らなかった。それで、自前の機材を7トン・トラックに乗せて持ち歩く必要があったんだ。その経費は膨大なものだった。今コロシアムでツアーをするときは、楽器とデスク、あとステージ後ろの垂れ幕だけ持っていけばいい。会場に機材があるのが当たり前の時代だからね。コロシアムIIで唯一、金になったのは、アンドリュー・ロイド・ウェバーの『スーパー・ヴァリエイション』(1978)というアルバムでプレイしたときだった。パガニーニをモチーフにしてロックとクラシックの融合を図ったアルバムで、イギリスのチャートでヒットしたんだ。

●コロシアムIIは2枚目のアルバム『エレクトリック・サヴェイジ』を1977年6月、3枚目『ウォー・ダンス』を同年11月というハイペースで発表しましたが、そんなに短いインターヴァルでアルバムを発売したのは何故だったのでしょうか?

それほど私たちがクリエイティヴだったということだよ。当時のマネージャーがロンドンの『モーガン・スタジオ』のオーナーで、誰も使っていない空き時間は、私たちがスタジオを自由に使えたんだ。それで曲を書いて、レコーディングして、発表した。当時イエスはアルバムを作るのに3ヶ月かかったけど、私たちは2日で完成させていたよ。

●今から振り返ると、コロシアムIIとはどんなバンドでしたか?

コロシアムIIは音楽的には凄いバンドだったんだ。3年ぐらい前、ドン・エイリーと電話で話したとき、『BBC』テレビで当時やったライヴ番組がyoutubeにあると教えてもらったんだ(1978年の『サイト&サウンド・イン・コンサート』)。「ザ・スコーチ」を見て、当時やろうとしたことは間違っていなかったと確信したよ。 あの時代は、自分たちの音楽が無価値じゃないかと、すごく苦悩したんだ。でも彼らとやった音楽は、本当に誇りに出来るものだ。単に金にならなかっただけだよ(苦笑)。

●ゲイリー・ムーアは自分のミュージシャンシップを確立させたのがコロシアムII時代だと語り、あなたに敬意を持っていました。

ゲイリーは素晴らしいギタリストだったし、私とやらなくても、いずれ才能が開花したんじゃないかな。でも彼がそう言ってくれたのは光栄だね。私も彼と一緒にプレイ出来たことを誇りに思っているし、彼が亡くなってしまって寂しいよ。もう一度、プレイしたかったね。ゲイリーが亡くなる9ヶ月ぐらい前、彼はドンと「コロシアムIIの再結成ライヴをやろう」と話し合っていたそうだ。残念ながら、それが実現することはなかったけどね。

●晩年のゲイリーは1980年代のロック路線でツアーをするなど、自分のキャリアを振り返る時期にあったので、その後に“コロシアムIII”をやりたかったのかも知れませんね。

うん、私もまたゲイリーと一緒にやりたかったよ。彼は本当に才能に溢れたギタリストだった。

●1978年の夏、ゲイリー・ムーアの後任ギタリストとしてコロシアムIIに加入したキース・エイリーについて教えて下さい。

ゲイリーがコロシアムIIを脱退するとき、まだヨーロッパのツアーが予定されていたんだ。私は彼に「このツアーだけ参加してくれ、それでバンドを解散させよう」と言ったけど、彼の意志は固くて、すぐに脱退することになった。あの時期、コロシアムIIは経済的に難しい時期にあったし、ゲイリーもガールフレンドとの関係など、プライベートな問題を抱えていた。正直、あの頃の彼は精神的に不安定だったと思う。私には彼を止めることは出来なかった。それで仕方なく後任ギタリストを入れて残りのツアーをやることにしたけど、8、9人オーディションしても、良い人材が見つからなかったんだ。そんなとき、ドン・エイリーが「僕の弟のキースを試してみたら?」と提案してきた。キースは素晴らしいギタリストだったよ。ドンも「あんなに良いギタリストだったら、もっと早く声をかければ良かった」と驚いていた。

●コロシアムIIのライヴで、キースはどんな曲をプレイしたのですか?

最後のヨーロッパ・ツアーでは『エレクトリック・サヴェイジ』『ウォー・ダンス』(共に1977)からの曲をプレイしたよ。ゲイリーがいた頃の曲だけど、新曲を書く時間はなかったからね。キースは見事にギターをこなしてくれた。キースが加入したことで、コロシアムIIを続けることも考えたんだ。ただ、その時点でバンドは経済的に八方ふさがりだった。もう店じまいするしかなかったんだ。それで契約済のライヴだけを消化して、解散したんだよ。

●ゲイリーのギター・パートをキースは弾きこなすことが出来たのですか?

キースには彼独自のプレイのスタイルがあって、彼らしく弾いていたよ。私がいるバンドでギタリストが交代するとき、前任者と同じプレイは求めないんだ。コロシアムIIの前、テンペストの時もそうだった。アラン・ホールズワースが脱退して、オリー・ハルソールが加入することになったけど、アランのパートを模倣することは求めなかったよ。アランが脱退することを私に告げたとき、既にツアーがブッキングされていたんだ。それでオリーが参加することになったけど、3週間だけ、2人がテンペストに同時に在籍していた時期があった。『BBC』でライヴをレコーディングしたときのテープを持っているよ。アランとシンガーのポール・ウィリアムスがいた頃の第1期テンペストも好きだったけど、オリーとマーク・クラークとのトリオでの第2期テンペストも楽しかった。オリーは素晴らしいギタリストだったけど、ライヴでのヴォーカルはあまり良くなかった。『眩暈』(1974)は良いアルバムだったけど売れ行きは良くなかったし、オリーが脱退したいと言って、テンペストは終わったんだ。そんなときゲイリー・ムーアと組むことになったんだよ。

●コロシアムIIの解散後、あなたはどうしたのですか?

バーバラのバンド、パラファネリアに加入したんだ。興味深かったのは、私が在籍してきたどのバンドよりも、パラファネリアが成功したことだった。特にドイツでは常にコロシアムIIの2倍の観客が集まったよ。彼女のバンドは当時、イギリス国外で最も大きな成功を収めたブリティッシュ・ジャズ・バンドだったんだ。特に彼女はドイツで人気があって、幾つもの会場で観客動員の記録を保持していたよ。

●2015年2月のコロシアムのラスト・コンサートの後は、音楽活動を続けますか?

コロシアムの『タイム・オン・アワ・サイド』と並行して、バーバラのソロ・アルバムをレコーディングしたんだ。それをミックスして、完成させるよ。それとスタジオにある古い機材や楽器の整理や、倉庫にあるテープの分類もやりたい。1/4インチ・アナログ・テープが400本以上あるんだ。それを徐々にデジタル化しているけど、いろんな作業の合間にやっていて、なかなか進んでいない。経年劣化したテープもあったりして、少しずつやっているよ。もう20年間、ツアーの連続だったから、家のことをやりたいんだ。その後のことは、それから決めるよ。今はバーバラとの時間を大事にしたいんだ。

●倉庫のテープに収められたアーカイヴ音源を公開していく予定はありますか?

ラジオ放送用の音源がかなりあるから、それを世に出していきたいね。ウェブサイトからダウンロード出来るようにするつもりだ。一部はCDやLPとしてリリースするかも知れないけど、主にファンが無料でダウンロード出来るようにする。

●ところで初期コロシアムのギタリストだったジェイムズ・リザーランドの息子、ジェイムズ・ブレイクの音楽は聴いたことがありますか?

いや、確かジェイムズの息子さんはミュージシャンをやっているんだよね?

●ジェイムズ・ブレイクは現代エレクトロニカを代表するアーティストの一人で、世界中の若い音楽ファンに人気ですよ。

それは知らなかった!凄いことだ。ぜひ聴いてみるよ。ジェイムズとはこないだ話したけど、息子さんのことは話に出なかった。教えてくれたら良かったのに(笑)。

2015年1月29日音楽ジャーナリスト&ライターの眼(1版)掲載 執筆記者:山崎智之

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