音楽教育によって、
スラムの子どもたちに生きる力を。
〈前編〉

高坂 はる香/音楽ライター

インドとクラシック音楽。二つの世界に惹かれて。

インドのスラムで暮らす子どもたちに、収入を得る手段を。そんな思いから西洋の楽器を教えるプロジェクトを立ち上げた音楽ライターの高坂はる香氏。プロジェクトの軸であるスラムとクラシック音楽に、氏はいかにして出会ったのか。そのきっかけに迫ります。

初めてのインドで、人にはさまざまな形の幸福があると思い知った。

私は、クラシック音楽のライターとして活動するかたわら、インドのスラムで子どもたちに楽器を教えるプロジェクトに取り組んでいます。私が通うスラムに暮らすのは、世襲で大道芸パフォーマンスを生業とする人たちです。彼らは音楽家やエンターテイナーとしての血が色濃い優れたアーティスト一族で、かつてのカースト制度においてはダリット(不可触民)にあたります。その影響で現在でも社会的身分が低く、生活は楽ではありません。そこで私は、彼らが第二の生業にできる楽器として、西洋クラシックの管弦楽器に目をつけました。西洋の楽器であれば、かつての宗教的な差別から離れて誰でも手にできます。演奏によって収入を得る機会が増えることで、彼らの生活が少しでも豊かになってほしい。これが本プロジェクトの目的です。

大道芸人のパペット(操り人形)によるパフォーマンス。

日本人の音楽ライターである私が、なぜインドのスラムを支援するのか。理由は、初めてインドを訪れた大学時代にまでさかのぼります。旅行好きだった高校時代の恩師からインド旅行を何気なく勧められた私は単身インドへ。そこでの2週間で、あらゆる価値観が共存する社会を目の当たりにし、「人にはさまざまな形の幸福があるのだ」と一気に視野が広がりました。「インドの人々は貧しく、それでも厳しい戒律を守りながら過酷な状況を耐え忍んでいる」という私の先入観は粉々に打ち砕かれました。

自分とは異なる価値観を持つインドの人たちと気心の知れた仲に。

インドの人たちは何をするにも周りの目を気にしません。滞在中には、大小さまざまな驚きの場面に、何度となく遭遇します。例えば、現地の友人から殻付きのクルミをもらったときのこと。私が「ナッツクラッカーがないから今は食べられない」と言うと、友人はドアの蝶番にクルミを挟み、こともなげに殻を割りました。ちゃんとした道具がなくても、床にクルミの殻が散らばっても、お構いなしです。彼らは、ただシンプルに目の前の問題を解決します。そんな様子を何度も目にするうちに、自分がいかに無駄なルールにとらわれて生きてきたのかを痛感するようになりました。

その後、大学院に進んで開発援助を研究したのは、日本での満ち足りた暮らしが、一部の人たちの貧しさの上に成り立っているという事実を忘れられなかったからです。そこで研究対象とする地域は、自分が人々のライフスタイルに尽きない関心を抱けるインドに。研究のフィールドに選んだデリーのスラムでは、現在も関わっている大道芸パフォーマーの人々に出会いました。長期に渡る彼らへのヒアリングで見えてきたものは、先進国にいる我々にはなかなか見えない本音です。例えばスラムの住人たちは、仕事を紹介してくれるNGOスタッフに対して、表面的には敬意を払います。しかし彼らは、一部のスタッフが優越感や身分的な差別意識を持っていると敏感に気づきながらも、上手にやり過ごし、うまく立ち回ります。半年以上をともに過ごしたことでようやく理解できたのは、彼らにも日本人と同じように「本音と建前」があり、日常の楽しみを大切にしながら生きていること。調査の成果を修士論文にまとめる頃には、私にとって彼らは、研究対象から普通の友人になっていました。

複雑な動きをさせられるパペットは、操作が難しいことでもよく知られている。

インドもクラシックも同じ。未知の価値観に触れる歓びがある。

スラムのことを始め、自分が見聞きしたことを多くの人に伝える術を身につけたい。そう思った私は、インド研究と並行して、クラシック音楽誌を発行する出版社でアルバイトを始めます。幼稚園の頃から高校時代までピアノを習っていたので、その経験を活かせる仕事だったことは幸運でした。その上、当時は人手が足りていなかったので、アルバイトの身ながら海外のコンクールに出かけてピアニストを取材する機会にも恵まれます。

取材を通じて触れたクラシック音楽の世界や、一流アーティストたちの考え方。私にとっては何もかもが新鮮でした。異なる価値観を知る歓びを日々味わったものです。自分の中にはない考え方に出会えるという意味では、私にとっては、西洋クラシックのアーティストも、インドのスラムに住むパフォーマーも同じように魅力的なのだと、このときに気づきました。一度足を踏み入れたクラシックの世界をもっと知りたい。アーティストの思考にもっと迫りたい。そんな思いから、大学院修了後もこの出版社に在籍し、編集者としての道を歩み始めました。

大学院生時代の2004年3月。ヒンドゥー教徒が春の訪れを祝って色の粉を掛け合うお祭り「ホーリー」を、パフォーマーのコロニーでともに祝福。フィールドワークを半年ほど続けた直後だったため、お世話になった家族が優しく迎え入れてくれた。

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高坂 はる香/音楽ライター
フリーランスのクラシック音楽ライター。学生時代の旅行をきっかけにインドに関心を持つ。大学院では半年以上現地に滞在し、大道芸パフォーマーの集うスラムを研究。現在は、専門であるクラシック音楽をインドのスラムで教えるプロジェクトの立ち上げに尽力している。著書に「キンノヒマワリ ピアニスト中村紘子の記憶」(集英社)。

取材日:

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