[ サムネイル ] 『楽器に、文化に、愛着を』 #2

『楽器に、文化に、愛着を』

#2 人口が増える国で、音楽の喜びを増やす

2023年5月24日

人口約14億人。2023年中に中国を抜いて人口世界一になるといわれるインドは、伝統音楽のほか、ボリウッドやポップミュージックなどでも独自の音色や音楽文化を持つことで知られている。

『楽器に、文化に、愛着を』(全3回)

#1 「楽器と心のメンテナンス」で中南米の音楽文化を育む

人口の半数以上が25歳未満と若く、活気あふれるインド。そんなインドの音楽文化にわれわれが貢献できることは何だろうと、ヤマハは以前から現地で活動を続けてきた。2008年に現地販売法人「Yamaha Music India(YMIN)」を設立し、2019年にはインド初の自社生産工場をチェンナイに立ち上げた。

インド向けの楽器開発にも力を入れている。インド市場におけるヤマハの楽器売上のうち約6割を占めるのがポータブルキーボード(PK)だが、ヤマハは2007年からインドの伝統音楽の音色を取り入れた専用モデルを販売している。中でも、3代目モデル「PSR-I500」はインドの音楽文化に対するヤマハのリスペクトを凝縮した一台だ。人口が増えゆくインドで、どこまでも現地の人々の感性に寄り添い、インドならではの音楽の喜びを増やす。そんな決意から生まれた楽器なのである。

多彩な音を多様な人に

3代目インドモデルには、これまで以上に幅広くインド音楽を楽しめるコンテンツが搭載されている。

「Voice」と呼ばれるキーボードで演奏できるインドの伝統楽器の音色は40種類。伝統音楽やポップスまでカバーする自動伴奏スタイルは50種類。そして「Riyaz」(リヤズ)と呼ばれる伝統音楽を練習するための伴奏機能が30種類。さらに、自分で音をサンプリングできる機能も追加されたため、これ一台で楽しめるインド音楽の幅は従来モデルよりも各段に広がった。

Riyaz機能は2012年に発売された2代目モデル「PSR-I455」から搭載されていたが、当時の名称は「タブラ・タンプーラ機能」だった。「タブラ」とは北インドの伝統音楽で使用される打楽器で、「タンプーラ」は同じく北インドの弦楽器を指す。タブラやタンプーラという言葉を知らない南インドの人々にとっては、この機能名から自分たちのインド音楽を連想しづらい。

[ サムネイル ] 電子楽器事業部 電子楽器戦略企画グループ エントリーキーボード商品企画担当 山下 司
電子楽器事業部 電子楽器戦略企画グループ エントリーキーボード商品企画担当 山下 司

電子楽器事業部 電子楽器戦略企画グループでインドモデルの商品企画を担当する山下司は、「タブラ・タンプーラ機能はインドの伝統音楽をカバーしようと搭載した機能ですが、2代目モデルまでは『インドの音楽』というより『北インドの音楽』に片寄っていた」と説明する。インドは、地域が違えば言葉も文化も異なる多様な国。「従来モデルでは、われわれが届けたいと願う『すべてのインドの人々』には届けきれていなかったのです」。
この背景には、ヤマハの現地法人YMINが北インドの都市デリーに設立されたという事情がある。YMINの社員は必然的に北インド出身者が中心となり、南インドの視点がこぼれ落ちてしまっていたのだ。

そんな反省からインドモデル3代目「PSR-I500」では、「オールインディア」の多様な音楽を網羅することを目標に掲げた。山下らの開発チームは、デリーのみならずジャイプル、ムンバイ、コルカタ、チェンナイといったインド各地を訪れ、現地のユーザーや音楽家にヒアリングした。YMINに勤務するインド人のプロダクトスペシャリストのフィードバックも積極的に取り入れた。こうして2019年、前モデルから7年の時を経て、より多様なインド音楽をカバーするインドモデルPSR-I500が誕生した。伴奏機能の名前は北インド由来の「タブラ・タンプーラ」から、ヒンディー語で「練習」や「脈々と続いてきた伝統を継承する」「師匠からありがたく学び、受け継ぐ」という幅広い意味を持つ「Riyaz」に変更した。

人々の心の声から生まれた楽器

PSR-I500の商品企画で山下が最も苦労したのは、「数あるインドの伝統音楽の楽器や表現手法から何を搭載するか、日本人である自分が決めて選ばなければならないこと」だった。北部と南部の音楽はカバーするよう努めたが、それでもまだインド全域の伝統音楽を網羅したとはいえない。40種の音色の選定にも頭を悩ませた。だが、悩み続ける中で、山下はある気付きにたどり着く。「“よそ者”という立場だからこそ、自分は純粋に使い手の気持ちだけを考えて開発を進めることができるのではないか」。

「インドモデルに関しては、外国人である自分の先入観を100%捨て、純粋に『インドの人たちが良いと思うものをつくろう』と決心しました。インドの文化になじみのない自分には思いもよらない部分があり、大変だったことは間違いありません。それでも、インドで暮らすさまざまな人たちの話を聞きながら判断していきました」

山下のそうした姿勢は次第に現地ユーザーに伝わっていった。どの国の人もそうだが、インドの人は特に「自分の国が大好き」だ。だからインドの人々のために開発された製品というだけで、人々の心に響く。「インドモデルと聞くと、『自分たちのために特別につくられたもの』という喜びが湧き上がるのだそうです。PSR-I500のユーザーがいちばん喜んだのは、そういう“想い”の部分だったかもしれません」(山下)。

こうして誕生したPSR-I500だが、山下は「まだまだ改善の余地がある」と思っている。インドには数百ともいわれる多様な言語があるが、取扱説明書は英語でしか用意できていない。価格もインドの人々にとっては決して安価ではない。それでも、ヤマハのインド市場における楽器売上のうち、約6割をキーボードが占めている現状を考え合わせると、「インドの人々のためにつくられたPSR-I500」は現地の人々の心に響いたのではないだろうか。

「ビギナーのための楽器」で広がる音楽

キーボードの商品企画に情熱を傾ける山下が、初めて音楽に興味を持ったのは中学生の終わり頃。「周りと比べるとやや遅かった」が、受験勉強をしながら聴いた深夜ラジオで、ポップミュージックが大好きになった。中でも彼の心をつかんだのは当時流行していた電子音楽だ。高校時代にはお金をためて念願のシンセサイザーを購入した。それは山下にとって、「楽器を弾けない自分」が「音楽のつくり手」になることを可能にする魔法の道具だった。

「楽器演奏は子どもの頃からやっていないと始めることをためらってしまうけれど、電子楽器はそんな不安を取り払ってくれる。頑張ってプログラミングを勉強すれば誰でも音楽をつくれるというのが、シンセサイザーや電子楽器のすごいところと思ったのです」(山下)。

その後、ミュージシャンに憧れたこともあったが、小さい頃から音楽家を目指してきたような人には到底追いつけないこともわかっていた。ならば、「自分が衝撃を受けた電子楽器をもっと多くの人に広めたい」。山下は大学では電気工学を専攻し、高校時代に初めて買ったシンセサイザーの製造元であるヤマハで働くことを志す。入社後は電気系エンジニアとして電子楽器の製造に携わったのち、中国・天津にある工場で工程設計を担当。2012年に帰国して以降は、電子楽器の商品企画を担っている。

そんなバックグラウンドをもつ山下だからこそ、現在は「ビギナーのための楽器」をつくることに情熱を注いでいる。

「ヤマハ社内を見渡すと、“プロ(玄人)はだし”の人がほんとうに多いですね。もともとプロミュージシャンを目指していた人と比べると、自分はどちらかというとビギナー向けの音楽に携わるほうが性に合っている。子どもの頃から楽器をやっていたわけじゃないので、『手軽に音楽をつくりたい』『手軽に演奏したい』という人たちの気持ちがよくわかるし、自分はそういう人たちのための楽器開発を担いたいと思ったわけです」(山下)

週末や隙間時間に行う「趣味としての音楽」をサポートする楽器は、確実に楽器演奏者を増やし、音楽文化の裾野を広げていく。さまざまな伝統音楽の音色やスタイルを瞬時に奏でられるキーボードのインドモデルもそのひとつだ。2023年5月には、さらに価格を抑え、より多くの人々に手に取ってもらえるようにしたエントリーモデル「PSR-I300」がシリーズに加わった。山下は言う。「昔はプロを目指す気持ちもありましたが、割とあっさり諦めてしまった。そんな自分が味わってきた音楽の喜びを、もっと多くの人に伝えたいという想いがあります。初心者が3時間くらい練習したら自分の好きな曲の1フレーズくらいは弾けるようになる──これからもそういうものを提供できるといいなと思っています」。

初めてキーボードに触れるインドの人々を思い描きながら、彼らの心を震わす音色を一つひとつ探し集め、凝縮させたPSR-I500。どこまでもインドの人々に寄り添いながら開発されたインドモデルは、元々音楽好きなインドの人たちの心の内に、音楽への確かな愛着を育む可能性を秘めている。前回紹介した「AMIGO Project」と今回のインドモデルは、遠く離れた二つの国を舞台にしているが、目に見えない「愛着」というキーワードでつながっている。次回はいよいよ、この二つの物語を貫くKeyに迫ります。お楽しみに。

(取材:2023年3月)

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山下 司|TSUKASA YAMASHITA

電子楽器事業部 電子楽器戦略企画グループ エントリーキーボード商品企画担当。2004年入社。電気系エンジニアを務めたのち、中国・天津の工場で工程設計を担当。2012年に帰国し、現在はインドモデルをはじめとしたキーボードの商品企画を担当している。

※所属は取材当時のもの

『楽器に、文化に、愛着を』(全3回)

#1 「楽器と心のメンテナンス」で中南米の音楽文化を育む

#2 人口が増える国で、音楽の喜びを増やす

#3 音楽を通して受け継がれていく愛着