[ サムネイル ] 『時を超えて奏でる音楽』 #1

時を超えて奏でる音楽

#1 「ライブの真空パック」の実績と可能性

2022年10月26日

チケットが取れない、開催地が遠い、バンドが解散した。そういったさまざまな理由で行きたくても行けなかったライブを目の前で再演させ、日時や場所の制約に関係なく誰もが楽しめるライブ体験を生み出す「Real Sound Viewing」。演奏した音をデジタル化し、そのデータを楽器の生音に変換することで忠実に再現。さらに奏者のリアルな等身大映像を組み合わせ、目の前で実際に演奏が行われているかのような臨場感あふれるバーチャルステージを実現するものだ。

ライブを「真空パック」する──。このコンセプトをもとに、ヤマハ独自の音のデジタル処理技術やトランスアコースティック™といった発音技術、そしてバーチャル上でのシンガーのステージなどで使われる透過スクリーンの技術を組み合わせることで、2017年に開発が始まったシステムである。

リアルな体感からひらめいたアイデア

Real Sound Viewingが生まれたのは、ヤマハで働くひとりのデザイナーの熱い想いからだった。柘植秀幸は、実際に足を運べないライブが数多くある中、この数年で定着したパブリックビューイングでの体験には不満を感じていた。その体験が、実際に「ライブを体感している」というより、ライブDVDを大きな画面で見ているような印象だったからだ。何かが、決定的に違っていた。

「せっかくライブの体験をもっと味わいたいと思っている人がいるのに、それが提供できていないことに課題を感じていました。私がライブの何が好きかといえば、その空気感。開場直前のドキドキする感じやファンがワッとなる瞬間、アーティストが演奏を始めて会場の熱気がピークに向かっていく時のざわめき。そうした生の体験をそのまま記録して再現する仕組みは、実はヤマハが既に持っている技術を組み合わせることで実現できるのではないか。そう思いついて始めたのがReal Sound Viewingです」

[ サムネイル ] Real Sound Viewingによるバーチャルステージ(ヤマハ企業ミュージアム「Innovation Road」内)
Real Sound Viewingによるバーチャルステージ(ヤマハ企業ミュージアム「Innovation Road」内)

人生を変えた「あの空気感」

本プロジェクトを率いる柘植がここまで「空気感」にこだわるのは、彼自身、ひとつのライブによって人生が変わるという、忘れられない経験を持つからだ。高校2年生の夏に横浜アリーナで見た、ある人気ロックバンドの解散ライブ。「どうしても見たかったので、頑張ってバイトして交通費を稼ぎました。チケットも入手困難だったのですが、苦労して探し回ってようやく手に入れたんです」。

「演奏自体の持つパワーに圧倒された」と、柘植はその人生初のライブ体験を振り返る。その日のライブに衝撃を受けた彼は、ライブ開催地だった横浜にある大学に進み、彼らに憧れてバンドを始めることになる。そしてバンド活動を続けるうちに「音楽の仕事がしたい」と考えるようになり、ヤマハに入社することを決めたのだった。

[ サムネイル ] デザイン研究所 柘植秀幸
デザイン研究所 柘植秀幸

「つまり、あのライブを見ていなかったら、私はいまヤマハにいなかったかもしれません。そのくらいインパクトがあったんです」と柘植は言う。「それほど人に影響を与えうるライブの空気感を、そのまま残したい。まさに『真空パック』という言葉がぴったりくると思い、システムのコンセプトの説明で使い始めました」。

静岡県浜松市で育む、世界規模のイノベーション

2017年、柘植のパーソナルな想いから生まれたこのアイデアに共鳴した仲間とともに2人でチームを立ち上げた。その後、少しずつメンバーが増えていく中でアイデアは急速にカタチになっていくが、それはヤマハだからこそ実現できたのだと柘植は振り返る。

ひとつは、人材の多様性。「総合楽器メーカーのヤマハには、楽器や音響、発音技術など、音・音楽に関するあらゆるスペシャリストがそろっています。わからないことがあれば、隣の部署や別のフロアに行けば解決のヒントを得ることができるんです」。柘植が言う、ヤマハのそんな環境が彼のアイデアの具現化を後押しした。

もうひとつは、ヤマハ本社のある浜松に根付く「やらまいか精神」だ。できるかできないかわからなくても、とりあえずやってみる。「チャレンジ精神を大事にするヤマハの気風が、チームをさらに加速させました。このメンバーでグラミー賞のテクニカルアワードを受賞できたらいいな」。こう語る柘植の言葉には、彼のビジョンが決して夢物語ではないと思わせる力がある。

ひとりの想いから、みんなの熱気へ

[ サムネイル ] 音楽ユニット「ORESAMA」のDistance Viewingの様子(2020年10月19日開催)
音楽ユニット「ORESAMA」のDistance Viewingの様子(2020年10月19日開催)

2018年12月、プロジェクトに共感したピアノトリオ「H ZETTRIO」とのコラボレーションが実現した。Real Sound Viewingが初めてライブに使用されることとなったのだ。そしてパンデミックが世界を襲った2020年、柘植のチームはReal Sound Viewingの技術を応用し、ライブの音声だけでなく、アーティストの姿や照明といった舞台上のすべての体験を保存・再生する、次世代ライブビューイングシステム「Distance Viewing」を開発した。ライブハウスの新たな動員源となるコンテンツを提供し、パンデミックで打撃を受けた音楽業界に貢献したい。そう強く考え、メンバーらは現在もシステム改良に取り組み続けている。

「本当に共感できること──例えば先ほどお話しした高校時代の自分のような経験があって、『ライブってみんな好きだよね』という想いが共有できると、それが原動力になって次に進んでいくんですよ。みんなが大事に思っていることさえちゃんと見つけられれば、周りを熱くすることができる。私はそう思っています」

Real Sound Viewingは海外の展示会でも高く評価され、さまざまなアーティストとのコラボ企画も動いている。ひとりの想いから生まれたプロジェクトはいま、多くの人に共鳴し、音楽のあり方までも変えようとしているのである。

音楽を「未来に残す」もうひとりのメンバーとして

[ サムネイル ] Real Sound Viewingが普及すれば、アーティストの演奏を世界中の人が同時に「ライブ体験」することも可能になる。ひとつのライブを見たことで人生が変わった柘植は「この技術によって自分が体験した感動を多くの人に届けたい」と語る。
Real Sound Viewingが普及すれば、アーティストの演奏を世界中の人が同時に「ライブ体験」することも可能になる。ひとつのライブを見たことで人生が変わった柘植は「この技術によって自分が体験した感動を多くの人に届けたい」と語る

Real Sound Viewingの最終的な目標は、音楽を無形文化遺産のように次世代に残していくこと。柘植は、そのためにはこの体験をビジネスとしても成り立たせていく仕組みをつくること、そして現在はまだ再現できない管楽器をはじめ、システムがカバーできる楽器の種類を増やしていくことが不可欠と言う。

「コンセプトに共感してくれて、協力し応援してくれる仲間が増えてきているんですね。社内もそうですし、社外の音楽関係の方々などが集まってきて、少しずつだけど本当にいろんなアクションが動き始めている。そんなところを見ていると、ああ、本当にこれは数十年後とかに結構大きな形になって残っていくんだろうなって実感するんです」。そう語る柘植は「音楽を未来に残す」というパートを担当する、バンドや楽団のもうひとりのメンバーのようだ。

果たして、柘植はいま、どんな未来を思い描いているのだろう?

「いまを生きる同時代のアーティストのライブと、数百年前のアーティストのライブが週末にあって、『今日はどっちを見に行こうかな』って悩める世界になったら、めちゃめちゃ面白いんじゃないかな」。柘植が夢中になって語るように、いま活動しているアーティストが百年後のアーティストと時空を超えたセッションをすることも、もはや夢ではない。

「そういう世界がもうちょっとで実現できそうだ、というところまで見えてきています。現代のレジェンド・アーティストたちの音楽を未来に残すためにも、彼らが活動を終えてしまう前に実現しなくてはなりません。僕らは、ヤマハは、本当に急がなくてはいけないと思っています」

(取材:2022年9月)

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柘植秀幸|YOSHIYUKI TSUGE

デザイン研究所。ヤマハ(株)入社後、ウェブマーケティングに携わりながら、美術大学でデザインを学ぶ。その後デザイン部門に異動し、プロダクトデザイナーとして活動する傍ら、2017年に「Real Sound Viewing」の開発に着手し、現在に至る。

※所属は取材当時のもの

『時を超えて奏でる音楽』(全3回)

#1 「ライブの真空パック」の実績と可能性

#2 森づくりから始まる、音楽の未来

#3 いつか未来の誰かと共に