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『楽器に、文化に、愛着を』

#1 「楽器と心のメンテナンス」で中南米の音楽文化を育む

2023年5月17日

演奏者にとって楽器は長く付き合うパートナーだ。そもそも演奏できるようになるまでに長い時間がかかるし、習熟した後も、楽器演奏を通じた自己表現という長い旅が続いていく。だから、楽器をより良い状態に保つための日々のメンテナンスがとても重要だ。万一、不具合が生じた時には、技術者が修理を施し、良い状態にしてユーザーの元に戻す。こうした環境を整えるため、ヤマハは楽器の製造・販売だけでなくアフターサービスにも力を入れている。世界中のお客さまがいつまでも楽器演奏を楽しめるように――。ヤマハの技術者が学校や店舗を訪れて楽器の修理を行うとともに、ユーザー自身にメンテナンスの重要性を理解してもらう取り組みを続けているのだ。

中でも近年、ヤマハが特に力を入れているのが中南米地域である。日本から遠く離れた地球の裏側で展開している「AMIGO Project」。それは、楽器を良い状態に保つための知識と技術を教えるだけでなく、愛着を持って楽器を使い続ける「心」を育む活動である。

子どもが育つ環境もメンテナンスする

AMIGO Projectが生まれたのは2014年のこと。当時ヤマハでは、新興国に音楽文化を普及させるための準備プロジェクトに着手していた。演奏経験がない人たちに楽器を手にとってもらうには、音楽を身近に感じてもらうことが必要だ。言葉も文化も異なる国の状況をより深く知るため、プロジェクトメンバーはまず現地の人々のリアルな声を聴くことにした。

「中南米には、日本では想像できない独自の音楽文化と地域特有の課題がある」。現地ヒアリングの中でプロジェクトメンバーが得た貴重な情報のひとつが「青少年オーケストラ」の存在だった。貧しい家庭に育った子どもは十分な教育を受けられず、犯罪に巻き込まれたり非行にはしるなど危険な環境下に置かれることも少なくない。このため、中南米諸国では青少年の育成を目的とした無償の音楽教育活動を国の施策として展開している。政府・民間が主導するオーケストラやバンドが各地で活動し、子どもたちがいつでも自由に出入りできるコミュニティとして機能している。青少年オーケストラに参加する子どもは約90万人に上るそうだ。

「この青少年オーケストラの一番の課題が楽器のメンテナンスだったんです」。B&O事業部でAMIGO Projectを担当する樋口俊亮は当時の気付きをこう振り返る。

[ サムネイル ] B&O事業部 B&Oマーケティング&セールスグループ 樋口俊亮
B&O事業部 B&Oマーケティング&セールスグループ 樋口俊亮

「日本では、吹奏楽部に入った子どもは自分の楽器を持つことが多いですが、中南米の子どもたちはひとり1本ではなく、複数人で1本の楽器を共有しています。当然楽器の使用回数が増え、メンテナンスの頻度も上がるとともに、壊れた場合は楽器を修理する必要がある。しかし、修理できる技術者が身近にいないため、楽器を良い状態に保てないという状況がありました」(樋口)

AMIGO Projectはこの課題を解決するために誕生し、いまではブラジル、メキシコ、コスタリカ、コロンビア、パナマの5カ国に広がっている。青少年オーケストラの指導者向けのメンテナンス・ワークショップを開いたり、楽器を修理できる技術者を育成して人々が楽器を使い続けられる環境を整えている。正しいメンテナンス法を学んだ指導者や技術者はそれを子どもたちにも伝え、メンテナンス知識の継承を図る。プロジェクト名のAMIGOはスペイン語で「友だち」の意味だが、サポートを意味する「Apoyo」を冠した「Apoyo Music Institute Government Orchestra」の頭文字でもある。

子どもの頃からエレクトーンを弾き、高校吹奏楽部ではクラリネットを演奏していた樋口が音楽を仕事にすると決めたのは、教育行政学を学んでいた大学院生の頃だった。2000年にオーストラリアで開催されたスポーツイベントにバンドメンバーとして参加した彼は、リハーサルの模様を一目見ようと集まってきた現地の人々の姿をいまも鮮明に覚えている。「すごい、音楽の力って国を超えるんだなぁ」。樋口は当時の感動をこう表現した。「音楽は国境も言葉も超えて世界中の人をつなげる。そんな魅力を持つ音楽により深く関わりたいと思ってヤマハに入社しました」。

しかし、入社から10年後の2013年に中南米担当を命じられたときは、思わず「え、私でよいのでしょうか?」と驚いたという。スペイン語もポルトガル語も話せない。中南米の文化にも詳しくない。それでも「海外で音楽の仕事をしたいと願っていたので、ありがたい機会をもらえた、と思いました」(樋口)。スペイン語の語学研修を経て、主にコスタリカ、コロンビア、パナマの3カ国で楽器メンテナンスの普及に尽力したのち、韓国勤務を経て帰国した。現在はアジア・パシフィック地域(日本・中国・欧州・北米以外の国・地域)のマーケティング・セールス担当としてAMIGO Projectをサポートしている。

正しく知ることで、楽しみ続けられる

メンテナンスに関する知識や技術を伝えるといっても、国や文化が違えば必要なアプローチも異なってくる。実際に中南米でAMIGO Projectを進めるには、どんなハードルがあるのだろう? ブラジルの現地販売法人「Yamaha Musical do Brasil(YMDB)」でAMIGO Projectを担当するイターロ・バルボは、大きく二つの課題があると語る。

[ サムネイル ] Yamaha Musical do Brasil(YMDB)イターロ・バルボ
Yamaha Musical do Brasil(YMDB)イターロ・バルボ

「ひとつは、音楽を演奏する人が楽器メンテナンスの大切さに気付いていないこと。そして、もうひとつは、演奏者が正しいメンテナンス法を知りたいと思っても、その情報にアクセスできないことです」。これらはブラジルではよくある問題だという。

「パンデミック中にはオンラインでメンテナンスのワークショップを行いましたが、PCやネット環境がないために参加できない人がたくさんいました。広大な国土のブラジルでは、各州にそれぞれの課題があります。新たな土地で活動を始めるたび、また新たな課題に直面する。それらを、一つひとつ解決していくことが重要なのです」(バルボ)

楽器の使い手がメンテナンスに興味を持っていたとしても、その知識が正しくないこともたびたびある。ある音楽家は楽器を掃除するために、なんと牛乳を使用していた。その人の父も祖父も音楽家で、何十年にもわたって牛乳で楽器を洗っていたのだ。「多くの演奏者は楽器を大切にしているつもりなのです。ただ、その方法が間違っている。だからこそ、私たちが正しい情報を伝える必要があるのです」と、バルボはAMIGO Projectの意義を語る。

自身は楽器を演奏しないものの、「暮らしの中には常に音楽があった」と話すバルボは映画音楽が好きで、特に作曲家ハンス・ジマーの大ファンだ。ヤマハに入社して9年、AMIGO Projectに関わり始めて7年。いまはプロジェクトで、助成金を受けて企画を展開する「Tender Market」とマーケティングを担当している。市場調査からイベントの企画運営まで行うこともあれば、ヤマハのブランドや歴史をブラジルの人々に伝える役目も担う。「この活動を通してブラジルのさまざまな地域を訪ね、ブラジル音楽の歴史や現状にたくさん触れました。仕事を通して、自分の国のことをより深く知ることができたと思います」。

「楽器のメンテナンス」は「心のメンテナンス」

AMIGO Projectの一番の課題はとにかく時間がかかること。メンテナンス知識を学んだとしても、その重要性を理解し、メンテナンスが習慣化するまでには何カ月も何年もかかることがある。「この活動は1回やれば終わりではなく、継続して伝えていくことで成果が現れてくるのです」。樋口とバルボの目線は遠い先に定められている。

だが、地道に活動を続けていけばメンテナンスの価値は必ず伝わるものだ。実際、プロジェクトでメンテナンスの大切さを知った指導者や子どもたちの多くが感謝の言葉を口にするという。「ありがとう。教えてもらった手入れを続けたら、楽器がまったく違うものに生まれ変わった」と。中にはワークショップから1年を経て、わざわざ感謝の気持ちを伝えに来る人もいたそうだ。

樋口とバルボはメンテナンスの重要性を伝える中で、人々の心が変化する瞬間を何度も見てきた。「楽器のメンテナンスを通してものを大切に使うことを学び、自分の心もメンテナンスできたのではないでしょうか」(樋口)。

そんなAMIGO Projectの活動は、バルボの言葉を借りれば「人々のウェルビーイングに直接影響を与えるもの」である。「楽器をメンテナンスすると、楽器と人の関係性が変わる。そして奏者の人生も良い方向に変わっていく。私たちは、そうした変化を創り出しているのです」(バルボ)。

AMIGO Project発足から9年。メンテナンスできる現地技術者が増え、その技術者たちが学校の楽器を修理したり、自分たちが教える側に回るといった活動の広がりも生まれ始めた。それは、現地技術者の自立を意味する。これからは彼らの手によって、子どもたちとサステナブルな音楽文化が育まれてゆくのだ。

「大学院時代に私がオーストラリアで感じたように、音楽は国境や言葉を超えて、人と人とを結ぶもの。ひとりでも多くの子どもが笑顔で楽器を演奏できるように、これからも愚直に活動を続けていきたい。この活動に終わりはないかもしれません。それでも、この価値が次の世代につながればいいなと思っています」(樋口)

メンテナンスを通して楽器への愛着を育む「AMIGO Project」。インドには、まったく別のアプローチで人々の愛着を大切にする活動がある。次回は、多種多様な伝統音楽が存在するインドの楽器奏者に寄り添うポータブルキーボード「PSR-Iシリーズ(インド市場向けモデル)」をご紹介します。

(取材:2023年3月)

次の記事を見る #2 人口が増える国で、音楽の喜びを増やす

樋口俊亮|TOSHIAKI HIGUCHI

B&O事業部 B&Oマーケティング&セールスグループ。2014年からパナマに渡り、中南米の代理店地域の営業・マーケティング業務に加え、中南米でメンテナンス活動を普及させるための「AMIGO Project」に従事。現在は本社でアジア・パシフィック地域を担当し、引き続きAMIGO Projectもサポートしている。

イターロ・バルボ|ITALO BALBO

Yamaha Musical do Brasil(YMDB)。入社以来、Tender Marketとマーケティングを担当。2016年よりブラジルでのAMIGO Projectを担っている。

※所属は取材当時のもの

『楽器に、文化に、愛着を』(全3回)

#1 「楽器と心のメンテナンス」で中南米の音楽文化を育む

#2 人口が増える国で、音楽の喜びを増やす

#3 音楽を通して受け継がれていく愛着