[ サムネイル ] 『すべての人の“表現したい”がかなう世界』 #3

すべての人の“表現したい”がかなう世界

#3 自由の音が聴こえてくる楽器

2023年1月25日

みんなとつながる自己表現

どんな人にもやさしく寄り添い、楽器演奏の楽しさに気づかせてくれる「だれでもピアノ」。すべてのクリエイターにボーカルを提供する「VOCALOID」。楽器の性質やユーザーは違うが、より多くの人の音楽表現をサポートしたいという「Key」が、この二つの事業には共通している。

そもそも、人はなぜ表現するのだろう。

VOCALOIDのマーケティングを担当する市川大は、「言葉では届かない深い部分で他人とつながりあえるから、人は自己表現するのではないか」と考えている。「私はDJとしてイベントに出演したり、主催もしたりしますが、遊びに来てくれるお客さんは、音楽やイベントを通した私の自己表現に何かしら共感して会場まで足を運んでくれるのだと思っています」。

自分のこころを乗せた音楽が、共感の輪となり広がっていく。これは、表現することの醍醐味のひとつと言えるかもしれない。

VOCALOIDで楽曲制作するクリエイターたちも同じように感じているようだ。「自作のボカロ曲をSNSで配信すると、リスナーからコメントだけでなく『歌ってみた』『弾いてみた』といった二次創作の作品も寄せられる。こうした濃いコミュニケーションが次の創作意欲につながっていく」。そんなクリエイターの声が市川と吉田のもとにはよく届く。あるボカロPは「VOCALOIDがあったから音楽を続けられた。音楽を続けられたから、いろんな人と出会うことができた」とまで言う。VOCALOIDを使った自己表現がクリエイターとリスナーをつなげ、またリスナーが「歌ってみた」「弾いてみた」などを通してクリエイターになるきっかけをもたらしているのだ。

「だれでもピアノ」の開発に携わった田邑元一も、「人は世界との接点を持つために表現する」と考えている。「必ずしも人に聴いてもらうためだけに演奏するわけではないけれど、やっぱり誰かに聴いてもらうことは大きな励みになると思うんです」。

自分の表現に反応を示す受け手の存在が、新たな表現につながっていく。そう考えると、自己表現は決してひとりで行うものではない。私たちはみな、自分と誰かとの間に「つながり」を奏でようとしているのかもしれない。

「だれでもピアノ」を高齢者施設に置くと、自然にコミュニティーが生まれるという報告がある。
「共同作業するわけでも、会話するわけでもないのですが、誰かが弾いていると人が集まってくるんです。そして、お互いに心が通じあったり、いままでにない形の心地よいつながりが生まれたりする。共通の趣味や話題で結ばれる関係性とは異なる、新たなつながりが生まれ、その真ん中に『だれでもピアノ』があるなんて、ほんとうに素敵ですよね」。

クリエイターをもっと自由に

VOCALOIDはひとつの音楽ジャンルを確立しただけでなく、その枠には収まらない独特な文化を発展させている。こうした文化を大切にしながら、クリエイター自身にもっと注目が集まるように、VOCALOIDを“楽器”として普及させたいと吉田らは願っている。

[ サムネイル ] 電子楽器開発部 音響・コンテンツグループ 吉田雅史
電子楽器開発部 音響・コンテンツグループ 吉田雅史

「音楽の中でドラムの音を耳にした時、生ドラムなのかシンセサイザーの合成音なのかを気にする方が昔はいましたが、いまは少ないと思うんです。ボーカルも、VOCALOIDが歌っているのかどうかなんて気にしない時代、つまりボカロ曲だから聴くのではなく、このクリエイターの曲だから聴くという時代がもう来ています」

だからこそ、楽器としてのVOCALOIDの可能性を広げなければならない。たとえばもっと多彩な歌手を用意して楽曲に合ったボーカリストを選べるようにすることはもちろん、まだ実現できていない人間の歌唱表現を再現することで、すべてのクリエイターに当たり前のように使われるようにしたい、というのが吉田の想いだ。

「VOCALOIDのゴールは人間のコピーではありません。しかし、人間の歌声の表現は実に多彩で、VOCALOIDで再現できないところがまだまだあるんです。それをひとつずつクリアしていけば、どんな要望にも応えられる楽器としてクリエイターに受け入れられると思います」

[ サムネイル ] 電子楽器事業部 電子楽器戦略企画グループ 市川 大
電子楽器事業部 電子楽器戦略企画グループ 市川 大

幅広い選択肢を提供すれば、それだけクリエイターの表現が自由になる。「1970年代のシンセサイザーがいまも演奏されているように、2007年に発売された初音ミクの『あの声』で歌わせたいと思う人が、遠い未来に現れるかもしれない。『クラシック』なVOCALOIDの選択肢を残すことも、進化の方向性としてとても大事なことです」と市川は語る。VOCALOIDの音楽をひとつの方向へと誘導するのではなく、クリエイターの表現をもっともっと自由にしたい。二人はそんな強い想いを抱いている。

楽器の器はもっと大きくなれる

田邑もまた、幅広いユーザーに使ってもらえるよう、「だれでもピアノ」の改良を進めている。「子ども、高齢者、障がい者、楽器未経験者など、一人ひとりにちょうどいいサポートの形はさまざまです。だから、ユーザーが押さえた鍵盤の動きに対してピアノがどのくらいのサポートで応えるかをAI(人工知能)を使ってカスタマイズできるよう研究開発を継続しています」。

[ サムネイル ] 研究開発統括部 研究開発企画グループ 田邑元一
研究開発統括部 研究開発企画グループ 田邑元一

田邑が何より大切にしているのは、弾く人にとってその人なりの挑戦ができる仕組みをつくることだ。「指一本の演奏であっても、ピアノを弾くということは難しい動作です。それでも、繰り返し弾いてその難しさを克服し、達成感を味わうことが、一番重要なことだと思います」。

「だれでもピアノ」は決して「簡単に弾くための楽器」ではない。演奏の難易度を調整できるので、弾けるようになるたびに「次にやりたいこと」が見えてくる。その挑戦にも、「だれでもピアノ」は応えてくれる。そう、その人に表現したいという想いがある限り、「だれでもピアノ」は人の成長プロセスに寄り添い続けてくれる楽器なのである。

楽器とは「使いこなす物」ではなく「共に奏でるパートナー」であり続けてほしい――これは、田邑が特に大切にしている想いである。いつも近くにいて、鍵盤を指で押すと音で応えてくれる。失敗した時、うれしいことがあった時、いつも演奏者の気持ちを静かに受けとめ、音楽に変えてくれる。人に孤立や孤独を感じさせない、やさしい世界がそこにある。田邑は現在、東京藝術大学と共に「誰もが孤立しない共生社会」というビジョンを描き、新たなプロジェクトに取り組んでいる。

クリエイターが自分らしく輝けるように表現の選択肢を広げ続けるVOCALOID。演奏者の成長にパートナーとして寄り添い、表現するよろこびを分かちあう「だれでもピアノ」。二つの物語がクロスする場所には、吉田、市川、田邑が夢見る世界が広がっている。それは、内なる思いを表現したいと願うすべての人が楽器と共奏し、心のままに自己表現できる世界。そして、紡ぎ出された音楽が周りの人の心を震わせ、共鳴する、やさしさに満ちた世界である。

(取材:2022年10月)

前の記事を見る #2 指一本からはじまったユニバーサルなピアノ

『すべての人の“表現したい”がかなう世界』(全3回)

#1 クリエイターの自由な表現に寄り添う技術

#2 指一本からはじまったユニバーサルなピアノ

#3 自由の音が聴こえてくる楽器