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音楽ライター記事

ライター:山崎│配信日:2014年1月23日│配信テーマ:洋楽  

ニック・カーショウ来日インタビュー/ロックなルーツと「ザ・リドル」の謎に迫る


 2014年1月、ニック・カーショウが約29年ぶりとなる来日公演を東京・大阪のビルボード・ライブで行った。「ザ・リドル」、「恋はせつなく」、「ドン・キホーテ」、「アイ・ウォント・レット・ザ・サン・ゴー・ダウン」など1980年代のヒット曲はもちろん、最新アルバム『Ei8ht』からの「スカイズ・ザ・リミット」、チェズニー・ホークスに提供した「ザ・ワン・アンド・オンリー」など、新旧の代表曲で魅了。新年早々、オールド・ファンの心を温めてくれるステージだった。

 今回の来日インタビューでは、彼のロックなルーツ、そして世界中で今もなお論議される「ザ・リドル」の謎に迫ってみた。

●約29年ぶりの来日公演ですが、前回1985年5月のジャパン・ツアーについて、どんな思い出がありますか?

 ライヴ・エイドの少し前で、10日ぐらい日本にいたんだ。扁桃腺炎で、喉の調子が良くなかったのを覚えている。あとライヴ会場のステージが低くて、観衆との距離が近かった。当時ちょうどチャートで人気が出てきた頃で、熱狂的なファンがステージに上がってきたら怖いと思ったけど、日本のファンはルールを守って、音楽を楽しんでいたよ。今回も感じたことだけど、日本人はルールを重んじる人々だね。自転車を停めて、鍵をかけなくても誰も盗んだりしない。ロンドンではそうはいかないよ。

●日本とは疎遠になっていましたが、あなたはコンスタントに活動を続けてきました。2012年にはアルバム『Ei8ht』も発表したし、スティーヴ・ハケットのライヴ・アルバム『ジェネシス・リヴィジテッド:ライヴ・アット・ハマースミス』にもゲスト参加しています。スティーヴとの共演は、どんな経緯で実現したのですか?

 きっかけとなったのは、ニック・ベッグスなんだ。ニックとは、彼がカジャグーグーでやっていた頃からの友達だ。近年、彼はプログレッシヴ・ロック界で活躍していて、スティーヴに僕の連絡先を教えたんだ。スティーヴは昔から僕の曲をツアー・バスで聴いたりして、ジェネシスの曲を再演するプロジェクト『ジェネシス・リヴィジテッド2』で一緒にやりたいと考えたそうだ。僕自身、スティーヴやピーター・ゲイブリエルがいた頃の初期ジェネシスの大ファンだったし、喜んで参加させてもらったよ。

●それ以前にもトニー・バンクスの『Still』にゲスト参加するなど、ジェネシスのメンバーとは縁がありましたね。

 うん、だからスティーヴも僕がジェネシス・ファンだと知っていたんじゃないかな。「歌いたい曲はある?」と訊かれたから「ザ・ラミアと即答したけど、あんなに難しい曲だとは考えていなかった(苦笑)。

●いつ頃からプログレッシヴ・ロックが好きだったのですか?

 1973年ぐらいかな、まだ15、16歳の頃だった。ジェネシスやイエスは好きだったけど、プログレ全体が好きだったわけじゃなかったんだ。ミュージシャンのテクニックは凄くても、大仰でわざとらしく、目標を見失っていると感じることが多かったからね。でもピーター・ゲイブリエルの歌詞には常にユーモアがあって、聴き込ませる魅力に満ちていた。それから僕はプロとしてバンドをやるようになって、結婚式や成人パーティーで演奏するようになったけど、趣味でフュージョン・バンドをやっていた。”フュージョン”というバンド名だったよ(笑)。ウェザー・リポートから影響を受けていたけど、他のメンバーにジェントル・ジャイアントを勧められて、ライヴを見に行った。プログレッシヴで、フォークの要素もあって…自分がやっている音楽はいわゆるプログレッシヴ・ロックではないと思うけど、どこかで地続きなんだ。繋がる部分がある。音楽に境界線はないんだよ。

●1980年代当時にはエレクトロ・ポップ的なテイストもありましたが、あなたは常にギタリストでした。最新作『Ei8ht』でも「シュート・ミー」「ユーア・ザ・ベスト」などで味のあるリード・ギターを弾いていますし…。

 僕は常に自分のことをシンガー兼ギタリストだと考えてきた。ただ1980年代にはシンセサイザーなどの電子楽器やプログラミングを音楽に取り入れるのが主流で、アーティストとして実験のしがいがあった。それで初期のアルバムはエレクトロ・ポップっぽかったんだ。

●ギターを始めた頃、どんなギタリストから影響を受けましたか?

 十代の頃、リッチー・ブラックモアが僕のヒーローだった。ディープ・パープルの『ライヴ・イン・ジャパン』を繰り返し聴いていたし、学校の友達とバンドを組んで「ブラック・ナイト」や「ハイウェイ・スター」をコピーしていたよ。僕はシンガーだったけど、家でギター・ソロを練習したものだ。リッチーの次に好きになったのはジェフ・ベックだった。『ブロウ・バイ・ブロウ』や『ワイヤード』の頃、1970年代の彼のギター・プレイは凄いよ。1980年代に入ってからの『ギター・ショップ』も最高だけどね。彼みたいに弾ける人はどこにもいない。アラン・ホールズワースもすごく好きだったけど、あまりに難しくて、コピーしようと考えすらしなかった。ひたすら畏怖するばかりだったよ。

●今回の来日ステージではギターが前面に出ていて、昔の曲でも新鮮なアレンジが施されていました。「ザ・リドル」でのケルト風メロディとツイン・ハーモニー・ギターがちょっとシン・リジィっぽかったりして興味深かったです。

 君に言われて初めて気が付いたけど、確かにシン・リジィっぽいかもね。彼らのレコードも2、3枚持っていて、たまに聴いているよ。

●元シン・リジィのゲイリー・ムーアのアルバム『ワイルド・フロンティア』のジャケットが『ザ・リドル』に似ていますが、あなたはどう感じましたか?

(『ワイルド・フロンティア』ジャケットを見ながら)このアルバムは初めて見るよ。ゲイリーと僕ではやっている音楽も異なるし、偶然似てしまったんじゃないかな?ゲイリーは1980年代の音楽シーンで面白いことをやっていたね。「アウト・イン・ザ・フィールズ」とか、ハードなロックとエレクトロニクスをクロスオーヴァーさせて、チャートで健闘したり、エキサイティングだった。面白いのは、『ザ・リドル』と「アウト・イン・ザ・フィールズ」のプロデューサーは、どちらもピーター・コリンズだったんだ。ピーターは後にラッシュやアリス・クーパーなどをプロデュースするようになって、すっかりハード・ロック界の大物プロデューサーになったね。

●ピーター・コリンズがあなたのデビュー・アルバム『ヒューマン・レーシング』をプロデュースすることになった経緯は、どんなものでしたか?

 元々、彼が第一候補ではなかったんだ。僕が『MCAレコーズ』と契約したとき、デモ2曲をルパート・ハインとレコーディングした。デモといっても、そのままリリース出来るぐらいの完成度だったけどね。「アイ・ウォント・レット・ザ・サン・ゴーズ・ダウン」と「ダーク・グラシズ」だったかな?彼はハワード・ジョーンズの『かくれんぼ』をプロデュースしていたし、その後に僕と一緒にやるのは自然な流れだったんだ。でもレコード会社のA&Rスタッフだったチャーリー・エアーはあまり気に入らず、彼の担当していたミュージカル・ユースなんかを手がけたピーターを薦めてきた。正直、僕のやっている音楽とはスタイルが異なると思って、あまり気乗りしなかったけど、いざ一緒にやってみると、すぐに素晴らしいプロデューサーだと気付いた。彼にはエゴがなく、うまく行っていると思ったら、余計な口を出さないんだ。絶妙な所で正しい方向に導いてくれるんだよね。それまで僕はフュージョンでレコードを出したことはあったけど、本格的なメジャー・スタジオで作業するのは初めてだったから、彼のようなプロフェッショナルと組むことが出来たのは幸運だった。

●ピーター・コリンズはロック系ではタイガーズ・オブ・パンタンの『危険なパラダイス』も手がけていましたね。

 そのバンドは知らないなあ…『MCA』所属のバンドかな?だとしたら、やっぱりチャーリーが雇ったんだと思うよ。

●1980年代当時、あなたのバンドにはギタリストとしてキース・エイリーがいましたが、彼は現ディープ・パープルのドン・エイリーの弟で、コロシアムIIでゲイリー・ムーアの後任として参加した人ですが、どんなギタリストでしたか?

 キースは良い友人で、素晴らしいギタリストだった。速いフレーズも弾けたし、トレモロ・バーも巧みに使っていたしね。僕のバンドではそんなテクニックを披露する機会はなかったけど、僕とは気が合って、よく音楽について話したよ。同じ音楽を好きだったんだ。アラン・ホールズワースとかね。ここ最近、彼はずっとミュージカル『マンマ・ミーア!』のロンドン・ウェストエンド公演でギターを弾いて、ツアーなどには出ていないようだけど、自分のアルバムを作ったりもしている。彼とはfacebookフレンドで、近況を伝えあっているよ。

●2013年にリリースされた『ザ・リドル』2枚組エクスパンデッド・エディションCDには、あなた自身が当時を振り返るライナーノーツが付けられていますが、アルバムのメイキングについてはあまり語られていません。アルバム制作の作業はどんなものでしたか?

 アルバムの制作についてあまり語っていないのは、語るべきエピソードがないからだよ!2週間でアルバムの曲をすべて書かねばならなかったんだ。「ワイド・ボーイ」のアイディアはあったけど、それだけだった。まだファースト・アルバム『ヒューマン・レーシング』の印税が入っていなかったから、小さなアパートにギターとシンセ、それからローランドTR-808リズム・マシンを置いて、曲を書いたんだ。シンセのアルペジオ機能をいじって浮かんだフレーズが、「ダンシング・ガールズ」と「ドン・キホーテ」になった。曲作りのちょっと前にレヴェル42のマーク・キングと友達になって、アルバムに参加してくれると言っていたから、彼がプレイすることを前提に書いたのが「イージー」だった。覚えているのはそれぐらいで、どうやって曲を書いたかは記憶から抜け落ちているんだ。

●「ザ・リドル」のケルティックなメロディを書いたときのことは覚えていますか?

 覚えてない(笑)。アイリッシュやケルティックなメロディは、少年時代から好きだったんだ。今から考えると、「ザ・リドル」のインスピレーションとなったのは、ザ・ボティ・バンドの「オールド・ハグ、ユー・キルド・ミー」だったかも知れない。「ザ・リドル」はアルバムで最後に書いた曲だった。ピーターが僕の家に来て、デモを聴いたとき、「とても良いけど、シングル向きの曲も欲しい」と言っていたのを覚えているからね。それからピーターが10分ぐらい席を外したときに書いたんだ。彼が戻ってきたとき、「ザ・リドル」がほぼ完成していた(笑)。

●しばしば「ザ・リドル」は米ソ冷戦についての歌だと言われますが、実際はどうだったのでしょうか?

 そう言われることがあるけど、実はその場でメロディに乗せててきとうに歌った、仮のガイド・ヴォーカルの歌詞だったんだ。ちゃんとした歌詞を後で書くつもりだったけど、あの歌詞がすっかり頭に染みついて、他の言葉を当てはめることが難しかった。次の週にスタジオで本格的なレコーディングに入ることが決まっていたし、新しい歌詞を書く時間もなかったから、そのまま歌ったんだ。

●”アランの老人がどうどう巡りをする”というフレーズは、ケルティックなメロディから連想されたものでしょうか?

 そうかも知れないし、違うかも知れない。頭で考えるよりも前に、口から出てきた言葉なんだ。もしかしたら深層心理で何か意味があったのかもね。世界中の人々が、今でも「ザ・リドル」の歌詞について話し合っているのは驚くし、スリルを感じるよ。彼らに明快な答えを教えてあげられたら良いんだけどね。アイム・ソーリー!

●ぜひまた日本でライヴをやってくれるのを楽しみにしています。今度は29年も待たせないで下さい!

 うん、僕も久しぶりに日本でプレイして、ファンの暖かさと音楽に対する熱意を思い出したよ。今回みたいにバンドでもいいし、僕が単独でソロ・パフォーマンスをやるのでもいい。また日本に戻ってくるようにするよ。


Special thanks:ビルボードライブ東京

2014年1月23日音楽ジャーナリスト&ライターの眼(1版)掲載 執筆記者:山崎智之

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