千住明氏コンサートにおける羽田健太郎氏演奏再現協力

2025年9月28日、東京オペラシティで千住明氏の活動40周年を記念するガラ・コンサートが開催されました。これまで千住氏が生み出した数々の楽曲が披露される中、”ハネケン”の愛称で親しまれ活躍したピアニスト、故・羽田健太郎氏の演奏をステージ上で再現する企画が実現されました。楽曲は千住氏の代表曲であるピアノ協奏曲「宿命」第1楽章で、千住氏の指揮によるオーケストラ「SENJU LAB Grand Philharmonic」の演奏とともに披露されました。

この企画において技術面で協力したのが、当社のミナラボ(MINA Lab/Music Informatics and New Applications Laboratory) と、ピアノ開発部門で構成された技術チームです。「羽田氏が生前に演奏した『宿命』の音源を、グランドピアノによる生演奏として届けたい」という千住氏の要望に応え、ヤマハは保有技術や知見を活用し、その実現を支援しました。

千住氏からの相談によって始まった技術開発

この企画のきっかけは、千住氏から、羽田氏による演奏音源が残る「宿命」をコンサートで披露したいとのご相談をいただいたことでした。千住氏からは「スピーカーから音を再生するのではなく、ピアノそのものを奏でて観客に感動を届けたい」というお話をいただきました。これを受け、私たちはピアノそのものが奏でる“生の響き”を観客に届ける方法について、技術面から検討し始めました。

そこで採用したのが、当社の自動演奏ピアノ「Disklavier™(ディスクラビア)」です。Disklavierはスピーカーを使わず、鍵盤やペダルを自動で動かすことで、グランドピアノ本来の音色と響きによる演奏を再現できる楽器です。データとして与えられた鍵盤やペダルの動き、すなわち「タッチ」を忠実に再現することで、録音音源の再生とは一線を画す、圧倒的な存在感のある演奏を届けることができます。

羽田氏の演奏をDisklavierで再現するためには、演奏音源からタッチを推定してデータ化する必要があります。しかし、これは完成した料理の味からレシピを推測するような、非常に難しい課題です。そこで私たちは自社のAI技術を活用し、効率を高めて推定することにしました。

ヤマハでは複数の音楽AI技術の開発を進めていますが、今回はさまざまな環境で録音されたピアノ音源から、演奏内容とそのタッチをAIによって推定する技術を採用し、羽田氏の演奏音源からタッチデータを推定しました。

初めに当社が予備検討を行い、千住氏とともに試聴会を実施しました。企画の実現可能性については一定の手応えが得られましたが、千住氏からはいくつかの改善要望が寄せられたのです。

演奏表現の調整

予備検討で制作したデータは方向性を定める上で有用でしたが、千住氏が企画として求めた「ハネケンらしさ」の表現に十分応えるには、さらなる調整が必要でした。

世の中ではAIの台頭によりピアノの演奏音から「どのように演奏されたか」を推定する技術が大きく進歩していますが、プロフェッショナルの繊細なニュアンスの再現は依然として難しく、私たちの予備検討データもステージで披露するにはあと一歩のレベルでした。また、タッチの推定は標準的なピアノを前提としましたが、再生するピアノが異なるとその差を補間できず、タッチの表現が変わってしまうという問題がありました。さらに、今回の企画の趣旨から本人らしさを際立たせることも重要で、デフォルメを効果的に取り入れる必要もありました。

そこで私たちは、当社のDisklavier開発チームと、自動演奏ピアノ向けコンテンツ制作の経験が豊富なクリエイターを新たにチームに加え、データのブラッシュアップを行いました。

まず着目したのは、ピアノの響きとニュアンスに大きな影響を与えるダンパーペダルです。ピアニストは、音の持続や音色の変化のためにペダルを繊細に踏み分けます。こうした挙動をAIモデルに組み込みながら、必要な後処理を施しました。次に検討したのが、羽田氏らしい演奏の特徴をどこまで表現できるかという点です。「羽田氏は繊細なタッチで音を紡ぐ一方、時にピアノ全体が共鳴するほどの力強い演奏も聴かせる」という千住氏の印象に近づけるために、一部の音の強弱について追加の調整を行いました。最終調整として取り組んだのが、ステージで使用するピアノへの実装です。ピアニストは演奏するピアノに合わせて無意識に自分の弾き方を適応させますが、現在のAIにそうした動的な適応力を持たせることは困難です。このため、自動演奏ピアノのコンテンツクリエイターがこの適応部分を担当し、本番と同じ環境・ピアノでデータを再生しながら、強弱のバランス等を調整しました。

ダンパーペダルの挙動をAIモデルで再現
リハーサルでの最終調整

コンサート本番での演奏

本番では、千住氏が観客に企画の趣旨を説明した後、ステージにDisklavierとピアノ椅子が配置され、演奏の準備が進められました。演奏者のいないピアノという異例の編成であったことから、会場ではその進行を興味深く見守る様子が見られました。。

千住氏の指揮のもと、Disklavierが音を奏で、千住氏率いるオーケストラとともに「宿命」第1楽章が披露されました。会場では羽田氏を思い涙ぐむ人、固唾をのんでピアノとオーケストラのかけ合いを見守る人、深く聴き入る人など、それぞれの想いで音楽を受け止めていました。クライマックスの後は熱い拍手が送られ、この取り組みによって実現したピアノの響きが、お客様の心に届いたことを私たちも会場で実感することができました。

千住明氏
スクリーンには羽田健太郎氏の姿が映し出された

今後の展望

今回の取り組みでは、ピアノの演奏音から演奏者の弾き方や表現の特徴を推定する技術を活用し、千住明氏とともにお客様の心に響く生演奏を実現いたしました。皆様から寄せられた期待や反響を受け止め、演奏や表現に関する技術をよりブラッシュアップしていくと同時に、私たちの技術を使ってどのような価値を提供できるか、音楽家やアーティストの皆様とともに探索していきたいと考えています。今後も当社は、技術と表現の両面から音楽表現の可能性を探求し、さまざまな音楽活動に貢献してまいります。

参考文献

“Mobile-AMT: Real-time Polyphonic Piano Transcription for In-the-Wild Recordings,” Yuta Kusaka, Akira Maezawa, in Proc. 32nd European Signal Processing Conference (EUSIPCO), 2024.