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読売新聞│配信日:2021年2月22日│配信テーマ:その他  

近田春夫 時代の先駆け70年 破格の軌跡 1冊に 大衆音楽の重要な史料 


 ◇週刊エンタメ
 近田春夫、まもなく70歳。その軽やかにして破格の歩みを追い切れている人は、多くないだろう。ミュージシャン、歌手、作曲家、音楽プロデューサー。音楽評論やタレント活動でも知られ、CMソングの隠れた巨人でもある。その多彩な歴史が「調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝」(構成・下井草秀、リトルモア)」として1冊にまとまった。読めば納得、バラバラの点のような軌跡が運命的な線としてつながっていく。数奇な個人史であり、日本の音楽史をたどる上でも重要な一冊だ。(清川仁)
 「自分のリアルな体験を時系列的に整理し、日本の大衆芸能としてのロックを文章として残しておくのは悪いことではないと思ってね」。自伝刊行の理由を、近田は語る。
 1951年2月25日生まれ。3歳でピアノを習い始め、多感な時期にエレキやグループサウンズのブームの直撃を受ける。自伝の詳細な記述からは、少年期から客観的な視線を作動させていたことがうかがえる。
 その目は、プロになっても不変。本書で〈俺は、とにかく舞台の袖からショーを観(み)ることが好きなの〉と明かしているが、「最高な袖」はステージだと言う。本書には、その特等席から観てきたもの、つながっていった縁がつづられる。
 高校生の時、ギタリスト成毛滋とバンドを組み、その成毛が発起人となった、69年の伝説的イベント「ニュー・ロック ジャム コンサート」の楽屋で内田裕也と初対面を果たす。キーボード奏者として加入した「内田裕也&1815ロックンロールバンド」ではテレビ番組出演時、前座のアマチュアバンドの格好良さに完敗——それが矢沢永吉がいたキャロル。
 このほか、アラン・メリル、筒美京平をはじめ、音楽家や表現者が続々と「近田史」にかかわってくる。司会を務めた音楽番組に出たスゴ腕高校生ギタリストが、後にB’zを結成する松本孝弘だったりもする。
 ジェフ・ベックも参加した75年の「ワールド・ロック・フェスティバル」に出演した際に海外勢から「米国で一緒にやらないか」と誘いを受け、断ったこともさらりと書かれている。当時は、「近田春夫&ハルヲフォン」として本格的にデビューしたばかり。「自分の考えているものを実現したい気持ちのほうが強かった。後悔はないです」
 70年代後半は、テレビやラジオでトークや演技の才能を発揮するが、81年にタレント廃業を宣言。契機は窪田晴男率いるバンド「人種熱」との出会いだ。才能にほれこみ、「人種熱+近田春夫」名義で活動。ボーカルとして立つ際に名乗ったのが、「近田春夫&ビブラトーンズ」だった。
 とにかく、歩みを止めない。ロックの可能性を探求し、歌謡曲とパンクを融合させるなど、常に時代の先へ。「必ずあったのは、人より早く気づきたい、人が考えついていないことをやりたいということ。理解して整理できれば、次のことを考えたくなる」。特にヒップホップでは日本の先駆者として名高い。86年、専門レーベルを設立し、翌87年、管楽器隊を擁する「近田春夫&ビブラストーン」を結成。「いずれ、いわゆる音楽家もヒップホップを無視するわけにはいかなくなる。だったら俺が一番先にバンドで揺るぎないものを作っておければと考えた」。DJが中心のシーンにおいて、演奏者ならではの別格の試みだった。
 振り向けば、いつも先駆。いつも柔軟、反権威。「既成の価値観に対して『絶対ではないよね』って。権威ってどの時代も絶対的なことのように押し出てくるけれど、今、絶対だと思われていることでも、絶対じゃなくなる時が来る」
 〈非アカデミックなものがアカデミックなものに勝つというその瞬間こそ、「ロックンロール」の醍醐(だいご)味〉と本書にはある。この人は、いつもその瞬間を希求してきたのではないか。
 「常に、絶対ヒットだと考えて作ってきたんだけどね」。皮肉なことに、考え抜いて作ったものは思ったようには売れず、CMソングなど「請負」の仕事のほうが人口に膾炙(かいしゃ)。その繰り返しが続いてきた。でも、「まだまだこれから。その意地はある」と言う。「自分に対する自信は揺るぎなくある。少なくとも70年変わらず来られて、これからも変わらないと思うんで」
  
 ●近況●
 3月17日、東京・新宿、カブキラウンジで、音楽評論家の吉岡正晴が司会を務めるトークショーに出演。
 また2月後半からは「ハルヲフォン」として、ゲストに、イリア(ジューシィ・フルーツ)、窪田晴男(パール兄弟)を迎えて新曲のレコーディングを行う。

読売新聞2021年2月13日読売新聞記事(1版)掲載 執筆記者:清川仁

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