[ 画像 ] 今週の音楽記事から 音楽ジャーナリストの眼 毎週月曜更新

新聞記事

毎日新聞│配信日:2019年9月9日│配信テーマ:クラシック  

<音のかなたへ>夕星の歌の声


 ドイツ・バイロイト音楽祭でワーグナーの≪タンホイザー≫を見たあと、丘の上の祝祭劇場から吐き出されるように、正装の男女の渦と共に外へ出た。今夏のドイツは暑かったが、午後10時近くになってようやく暗くなった外気が、ひんやりと肌に触れる。斜め後ろから《タンホイザー》の中の有名な《夕星(ゆうずつ)の歌》の旋律を小声で口ずさむ女の人の声がした。先ほど舞台で、清廉なヴォルフラム役のバリトンが歌ったばかりだ。死の予感を覚えつつ、片思いの相手、エリザベートへの優しい気持ちを込めた歌はしっとりとして、一瞬、《タンホイザー》の精神と官能の闘いを忘れさせる。どこかで聞き覚えがある気がした。振り返ると、黒いロングドレスを着た銀髪の婦人と、一瞬、互いに目が留まって、その直後、耳に残る声が記憶を呼び覚ます。声は年を取らない。あー、と言葉にならないでいると、向こうも驚いたような顔が笑顔になり「長い間お会いしませんでした。お元気ですか?」と小声で。「何年?」と言ったきりこちらは後が出ない。前にいた連れ合いのような人が彼女の手を引っ張ったので、銀髪の下に笑顔を残して、迎えに来た車に彼女は乗り込んだ。

 バイロイトには1986年から取材で通っている。初めのころ泊まったホテルで朝食を取っていると、給仕をしている若い女性が「きのう祝祭劇場であなたを見ました」と控えめに話しかけてきた。彼女は「チケット求む」と紙に書いて劇場近くに立っていたが結局、入手できなかったと言う。10日間の滞在で何回か話すうちに、フルートを学ぶ音大生でワーグナーが大好きなため、夏の間、ホテルでアルバイトをしていると分かった。とりわけ好きな作品を問うと、《夕星の歌》の出だしを口ずさんだ。

 あるとき、食堂に置いてある新聞各紙をめくっていると、「批評を探しているの?」と近づいてきた彼女が手早く探して、何紙かに批評を見つけ、その頁(ページ)を引き抜いて渡してくれた。音楽祭に来た滞在客が新聞批評を読むだろうに。物静かな彼女の思いも掛けぬ行動に驚いた。

 バイロイトはホテルを取るのも至難で、翌年もその後もなかなか同じホテルを取れなかった。だいぶ後に再び泊まったが、彼女は居なかった。

 今年泊まったホテルは祝祭劇場から遠い。夜気に当たりながら延々、歩いて帰った。今の彼女は裕福そうに見えたので、バイロイトを堪能しているかもしれない。筋書きを変えてしまう今回の過激な《タンホイザー》に驚いたが、耳の中には《夕星の歌》の心優しいアリアがめぐっていた。<梅津時比古(特別編集委員)>

毎日新聞2019年9月 2日東京夕刊(2版)掲載 執筆記者:梅津時比古

クラシック   のテーマを含む関連記事