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毎日新聞│配信日:2018年7月9日│配信テーマ:クラシック  

<音のかなたへ>静けさを聴き取る


 ニーチェは耳について不思議なことを書いている。

 <私はまだ耳を持っているのか? それともまだ私は耳にすぎないもので、それ以上の何ものでもないのか?>(信太正三訳)

 分かりにくい書きようだが、続けてニーチェが、深い巣窟から聞こえてくる歌と、自分に襲いかかる咆哮(ほうこう)、脅迫とか甲高い叫びとを比べているのを見ると、ニーチェは<まだ耳を持っているのか?>と問いながら、かそけき音を聴き取りたいと望み、反対に<耳にすぎない>と嘆きながら、押し寄せる大きな音に耳を占められまい、としていることが分かる。

 深い巣窟の中から立ちのぼってくる歌を聴くように、世界のかすかな音に聞き耳をたてることで、ニーチェは物事の本質に近づこうとしているのだろう。咆哮とか甲高い叫びとは、声高に叫ばれる政治的な主張やプロパガンダ、芸術においては自己顕示や大宣伝などを指すのだろう。そういう大上段から振りかざす大きな音を拒否したいというのである。

 聞くことをめぐる思考だが、それは発信することと一体に違いない。たとえば音を奏でるとき、耳は聴き取ろうとしている。聴き取る音しか発信することはできない。

 アルバン・ベルクのとりわけ初期の作品は、世界の音をそっと聴き取ろうとしているように思える。初期のほとんどの曲を自ら没にしてしまったベルクがわずかに残した《初期の7つの歌》。おずおずと、ひかえめに、自らの熱をもてあまさないように細心の注意を払うたたずまいが、今もそのまま息づいている。

 1曲目の《夜》。夕闇に包まれた自然の光景が、異形の重なるなじめないものに見えるのか、ファゴットとクラリネットなどの上行音で不気味に始まる。そこに、暮れなずむように声が溶け込んでゆく。それは谷と夜を溶け合わせて沈んでゆく雲に沿った詩だ。突如、月に照らされた銀嶺が浮かび上がり、「見つめよ、見つめよ」と詩は黙してゆく。深い谷の底にまたたく灯火に自らの孤独が吸い込まれる。遠くの木立からひっそりと風が吹き抜けてゆく。弦と管の弱音で、流れる夜気のなんと美しくかなでられることだろうか。この世界が静かになればなるほどさまざまな色が現れてくることが分かる。聴きながら、夢のような孤独を見つめる。

 この曲をはじめ7曲中6曲において、弦楽器やトランペットやトロンボーンなどの管楽器に、弱音器が付けられる。

 今、社会が虚実取り交ぜた政治的な数々の騒音にかき乱されているとき、この静けさは、私を私に返らせてくれる。<梅津時比古(特別編集委員)>

毎日新聞2018年7月 2日東京夕刊(2版)掲載 執筆記者:梅津時比古

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