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毎日新聞│配信日:2017年12月25日│配信テーマ:クラシック  その他  

<新・コンサートを読む>「オーケストラ・プロジェクト」の試み 体内化した痛みの表現=梅津時比古


 芸術は社会の破局をすぐには受け止められない。

 東日本大震災による福島第1原子力発電所のメルトダウンと、津波が一斉に建造物を押し流した町村の流失は、私たちのアイデンティティーをも破壊したと言っていい。

 直後の対応で目についたのは、過去の「美しい日本」への固執であった。多くの人が、目の前で起きたことを信じられず、こんなはずではない、日本は美しい国であった、と過去にアイデンティティーを求めた。安倍晋三首相が所信表明演説で「誇りと自信を取り戻そう」と訴えたのも、その流れを表すものだろう。

 しかし6年を経て、音楽においてもようやく大惨事が体内化され始めている。過去を美化すること自体が欺まんであることに私たちは気づいた。

 全曲初演で行われた「オーケストラ・プロジェクト2017 響生−生命の音、時空を超えて」(11月17日、東京オペラシティ。杉山洋一指揮東京交響楽団)。1曲目の平井正志《春山白雨》は、過去の日本の美を描いているとも言えるが、たとえ作曲者が明確に意識せずとも作品の本質として「破局以後」は体現される。ここでは「自然」に対する意識が問われている。ヨーロッパにおいて「自然」は非人間的なものであり、人間は「自然」と闘って生を確保しなければならない世界観がある。対して、日本では「自然」は人間を温かく包み込むものであった。故に根こそぎ生活を押し流した津波が信じられなかったのである。平井は自然を単に美化しない。むしろオーケストラの苛烈な錯綜(さくそう)のほうが耳に残る。

 国枝春恵《弦楽器・打楽器・尺八のための音楽〜花を3〜》、鈴木理恵子《風神雷神門−鼓、尺八とオーケストラのための》はいずれも邦楽器をオーケストラと共演させる。だが、ここでも、邦楽器は過去の日本を美化するよすがではない。かつて武満徹において邦楽器はヨーロッパに対峙(たいじ)する手立てであったが、国枝と鈴木にとっては西欧楽器と同等の音素材かもしれない。鈴木の作品は聴衆に掛け声をかけさせて巻き込むなど、二人の作品は極めて活力があった。それは前進への煩悶(はんもん)を経たものだろう。国枝の作品の打楽器と尺八の、そこ以外に接点は無いと感じさせる響きを聴いていると、研ぎ澄まされているが故に一切の余情の入り込むすきはなく、なぜか痛みがひしひしと迫ってきた。国枝は自作解説に「未来志向の明るい色調」と書いているが、それが「痛み」と同義に思えた。

 最後の《管弦楽のための「空」》の作曲者、石島正博は宮城・石巻生まれであり、津波で亡くなった子どもたちを明確に本質に据えている。3管編成のフルオーケストラにもかかわらず、曲が進むにつれ、使われる楽器は徐々に少なくなる。作者が「異境を思って、そこに憩う子どもたちの声を聴き取ろうとし」「私から彼らに呼びかけ、あるいは、彼らの代わりに歌い、踊ろうと思った」とする最後は、少ない音が幻想として優しさと悲しさを突きつける。

 痛みを見据えることが、未来への対峙になる。(特別編集委員)

毎日新聞2017年12月16日東京朝刊(2版)掲載 執筆記者:梅津時比古

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