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ライター:富澤│配信日:2017年4月27日│配信テーマ:ジャズ  

ジョン・コルトレーン編<4>|なぜジャズには“踏み絵”が必要だったのか?


実は、ジョン・コルトレーンを“踏み絵”としての存在へと導いたセロニアス・モンク(1917-1982)自身も、やがて“踏み絵”として広く知られることになり、現在に至っている。

彼を“踏み絵”の座に据えたのは、“セロニアス・モンク国際ジャズ・コンペティション”。

このコンペ(競技会)はワシントンD.C.に本拠を構えるセロニアス・モンク・ジャズ協会によって1987年から開催されているもので、年ごとに異なる楽器の有望な若手奏者を選出して、賞と奨学金を授与している。審査員にはブランフォード・マルサリス、パット・メセニー、ハービー・ハンコック、クインシー・ジョーンズ、ダイアナ・クラールといった錚々たる面々が名を連ね、この賞の決定をジャズ界で最も権威があるものにしている。

つまり、セロニアス・モンク国際ジャズ・コンペティションを受賞するということは、従来のジャズに“踏みとどまる”ことなく、次世代のジャズを生み出す才能を有しているという“お墨付き”をもらうということだ。そして、ここでいう“踏みとどまる”とは“セロニアス・モンクを踏んでいる”ことを意味するから、受賞した人は“踏み絵”を踏まずに超えたことになるわけだ。

セロニアス・モンクはビバップの創始者として知られるが、その名を“ジャズを中興する者”の比喩として用いるのは、絶妙と言わざるをえない。というのも、いちばん“踏み絵”らしくない“踏み絵”だと思うからだ。実際にこのコンペがスタートしても、権威化されこそすれ神聖化されることはないと言っていい。

セロニアス・モンクが“踏み絵”と化したのは1987年なので、その功績はまた改めて検証していくとして、ジョン・コルトレーンの話に戻ろう。

1957年、フィラデルフィアに戻って禁薬・禁酒をしたジョン・コルトレーンは再びニューヨークへ出て、セロニアス・モンクのもとでバンド・メンバーとして“リハビリ”を始める。

この頃について彼は、「ダウンビート」誌のインタヴューにこう答えている。

(モンクは)わからないことを聞くと、ピアノを弾きながらすべてを答え、教えてくれた。彼のプレイは、私の疑問点、知りたい点を全部明確にしてくれた。もちろん、私自身知らなかったことも、彼を通していろいろ発見した--と。

セロニアス・モンクは、ビバップの創始者と言われるだけあって、和音を再構築させるアイデアに富んだクリエーターだった。

分解したコードの音を反射的にその音を効果的な位置に“投げ込む”ことのできる才能を有していたのだ。

その“ひらめき”ゆえに、彼には本当の意味での“フォロワー”が存在せず(彼らは自分の理解の範疇で演奏するために、分解したコードの音をシステマチックに置き換えようと腐心していたからだろう)、孤高の地位を保ち続けることになった。

しかし、コルトレーンは違った。フォローではなく、モンクの演奏によって自分の疑問を解決し、そこから新たに発見をしたというのだ。

おそらくコルトレーンは、モンクが直感的にコードを分解しながら再構築していくようすを間近で見ながら、直感ではなく再現可能な理論(あるいは彼が考える“宇宙の摂理”)として成り立つように、アクセントや譜割りなどのテクニックを流用して、フォーマット化しようとしていたに違いない。

そしてそれは、“シーツ・オブ・サウンド”と呼ばれるコルトレーンのサウンドに結実していくことになる。

次回は、そのシーツ・オブ・サウンドを完成させていく1957年の後半に話を進めたい。

<続>

2017年4月27日音楽ジャーナリスト&ライターの眼(1版)掲載 執筆記者:富澤えいち

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