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ライター:富澤│配信日:2017年4月6日│配信テーマ:ジャズ  

ジョン・コルトレーン編<1>|なぜジャズには“踏み絵”が必要だったのか?



チャーリー・パーカーという“踏み絵”を踏むことなく、彼の演奏や方法論を(少しでも)理解しようとしたジャズ・ファンには、メロディや型どおりのコード・ワークにとらわれることのない、より自由にジャズを楽しむことができるビバップという“免罪符”が与えられることになる。

チャーリー・パーカーを“踏む”、すなわちビバップへの先入観的拒絶を自らが認めてしまえば、1940年代以降のほとんどのジャズは理解できない、許容できないものになってしまうだろう。

では、チャーリー・パーカーという“踏み絵”さえ踏まなければ、それ以降のジャズをフリーパスで理解できるのだろうか?

その答えは、残念ながら「ノー」なのだ。

チャーリー・パーカーという“踏み絵”が、ジャズを楽しむための試金石として効力を発輝するのは、1950年代半ばまで。実は、1955年というチャーリー・パーカーの寿命が尽きた年を境に、と言っても大げさでないほど、ジャズ・シーンはそこで大きな変革を迎えることになるからだ。

つまり、チャーリー・パーカーという“踏み絵”を踏まずにジャズがもたらす甘露を享受していた者には、次なる“踏み絵”の試練が待ち受けている、というわけだ。

その“踏み絵”とは、ジョン・コルトレーン(1926―1967)。

ジョン・コルトレーンがプロのサックス奏者として活動を始めたのは1946年、20歳になったころのことだ。その3年後には、ビバップの立役者として最前線で活躍していたディジー・ガレスピーのバンドに抜擢されたりしているので、腕前に遜色はなかったのだろうが、決して早熟の天才的な注目を浴びるような存在ではなく、実際に1940年代のジョン・コルトレーンに取り上げるべき業績はない。

彼が注目を浴びることになったのは、マイルス・デイヴィスからレギュラー・メンバーのオファーを受けたことがきっかけだった。それが奇しくも1955年のこと。

マイルス・デイヴィスはその3年ほど前に自身のライヴ・セッションにジョン・コルトレーンを起用したことがあり、すでにその腕前がどの程度であるのかを知っていたようだ。

ならば、その実力を期待してのレギュラーへの起用だったのかと言えば、そうでもなかったらしい。

1950年代前半のマイルス・デイヴィスが考えるサックス奏者のベスト・チョイスは、まずソニー・ロリンズ。そして、キャノンボール・アダレイ。ジョン・コルトレーンは“補欠要員のひとり”にすぎないというのが実情だったようだ。

いわゆる“棚ボタ”で浴びた脚光だったわけだが、その不均り合いさを証明するかのように、当時のジャズ・ファンからの評価は芳しくなかった。

マイルス・デイヴィスや周囲の評価は高かったものの、自身の体調不良によって、l年半ほどの活動の後にジョン・コルトレーンはマイルス・デイヴィス・クインテットをクビになってしまう。

ところが、再びマイルス・デイヴィスのツアーにレギュラーとして迎えられた1957年末の時点で、シーンの彼への評価は180度ほども異なるものになっていた。

“踏み絵”に足る変貌を遂げた1957年以降のジョン・コルトレーンについては次回。

<続>

2017年4月 6日音楽ジャーナリスト&ライターの眼(1版)掲載 執筆記者:富澤えいち

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