音楽ライター記事
チャーリー・パーカー編<2>|なぜジャズには“踏み絵”が必要だったのか?
では、チャーリー・パーカーのデビュー前のエピソードを検証していこう。
論点は3つある。今回はその1つめ。
♪ 1937年当時のジャムセッションはどんなスタイルのジャズで行なわれていたのか?
チャーリー・パーカーのデビュー前の評価を考え直すためには、まず当時の評価の基準となるジャズがどんなスタイルだったのかを知っておかなければならない。
1937年といえば、1920年生まれのパーカーは16~17歳。
1日に15時間も練習に費やすジャズ漬けの日々を3~4年も続け、高校を中退してプロとしての活動をスタートさせていたころの話だ。
パーカーに「下手くそ」の烙印を押したエピソードにも名前が挙げられていたように、地元カンザスシティのジャズ・シーンは、デューク・エリントン楽団でもベニー・グッドマン楽団でもなく、カウント・ベイシー楽団のサウンドが“規範”とされていたと考えていいだろう。
ピアニストとして活動していたカウント・ベイシー(1904-1984年)は、楽旅で訪れたカンザスシティでベニー・モーテン楽団に参加する。1929年のことだった。ベニー・モーテン楽団は、カンザスシティを拠点にニューヨークへの進出も果たしていた人気バンドで、ベイシーの参加でさらに名声を高めたが、1935年にモーテンが逝去。そこで、ベイシーがその後を継ぎ、リーダーとして楽団を率いることになったというのが前史だ。
ベイシーは、“ジャンプ”と形容される、アクセントを強調した特徴的なサウンドを意識的に取り入れ、スウィングのなかでも際立った個性を打ち出すことに成功していた。特に、そのリズミックな演奏の担い手となっていたリズムセクションは、“オール・アメリカン”と冠されるほど高く評価され、世界にその名を轟かす原動力にもなっていた。
ベイシー楽団のメンバーは、国内外を飛び回る売れっ子になったわけだが、たまに“錦を飾る”ためにカンザスシティに戻り、馴染みのクラブへ顔を出して、旧交を温めたり、若手に胸を貸したりしていたのだろう。
そんな若手のひとりに、チャーリー・パーカーがいたわけだ。
こうした背景から考えると、カウント・ベイシー楽団の屋台骨である“オール・アメリカン・リズムセクション”の一翼を担っていたドラマーのジョー・ジョーンズともあろうものが、“飛び入り”に寛容なアメリカのジャズ・シーンの慣習を無視して演奏を強制終了するようなことがあるだろうかという疑問が湧く。つまり、若手がコード進行を見失うという初歩的なミスをしたぐらいで、クラブの雰囲気をぶち壊しかねない行動に出たとは考えにくいのだ。
百歩譲って、パーカーのコード・ロスが原因ならば、彼の演奏のほうが止まってしまい、リズムセクションの音だけが虚しく鳴り続けてエンディングを迎える、という流れのほうが想像しやすく、未熟な若造にわざわざシンバルを投げつけるような労力を払うことはなかったのではないだろうか。
ジョー・ジョーンズが(本当にシンバルをパーカーの足元に投げつけたかどうかは別にして)飛び入りの少年の演奏を止めなくてはいけないと感じたとしたら、それはソロが長すぎるというようなマナー違反があったり、従来のコード進行のセオリーにそぐわない演奏が行なわれていたためなのではないだろうか。
理由はひとつではないだろう。パーカーが猛練習のなかでつかんでいた音楽的展開、つまり後にビバップとしてジャズの流れを変えることになる要素が盛り込まれたフレーズをデモンストレーションしようと必死になるあまりソロが長くなり、結果的に(スウィングに慣れ親しみ、ベイシー・サウンドを求めて集まっていた客ばかりの)そのクラブの雰囲気を大きく損ねる事態が、同時に発生していたに違いない。
ほかのメンバーもテーマに戻るきっかけをつかめず、パーカーのソロが空中分解するかたちで曲が止まってしまい、ばつの悪さをなんとかしようとしたジョー・ジョーンズが曲を切り上げたことを観客に知らせようとしてシンバルを「カーン!」と叩いた――というあたりが真相に近そうだ。
では、周囲をドン引きさせてしまったチャーリー・パーカーの演奏(アプローチ)とはどんなものだったのかを、次回は考察してみたい。
<続>
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