[メインビジュアル] Nadia Dandachiさん
ブランドストーリー

Nadia Dandachi

ピアニスト、教育者、医師

「音楽は私の癒しの場所」

ピアノがもたらす変容の力

ピアニストNadia Dandachiはオンライン教育を通じて女性の可能性を広げる

Nadia Dandachi氏にとって、エンパワーメントの鍵は潜在能力を使いこなすことにあります。小児科医を本業としながらピアニストとしても活躍する、29歳の彼女の可能性は多方面にわたります。医療においても、そして音楽教育の分野においても、彼女は他の人々の可能性に対して揺るぎない信頼を寄せています。

Nadia Dandachi氏のストーリーには驚かされるかもしれません。わずか3歳でベビーシッターが口ずさんだ曲をおもちゃのキーボードで弾き、6歳でピアノのレッスンを始め、14歳で初出場した国際ピアノコンクールで優勝したのですから。彼女の生まれつきの才能や音楽好きの性格が、その成功にある役割を果たしたことは疑いようがありません。しかしそれ以上に、彼女を成功に導いたのは、飽くことのないピアノへの探求心でした。「音楽は私にとって安全な癒しの場所でした。いつも音楽がそこにあったのは、私の人生において、もっとも大きな祝福だったといえるでしょう。私はいつでもピアノの前に行って、自分だけの時間を過ごしました。物思いにふけり、演奏している曲に没頭することができました」

[写真] Nadia Dandachiさん

サウジアラビアで生まれ育ったDandachi氏は、伝統的な音楽教育に対する文化的・社会的障壁に直面していました。しかし、彼女の家庭では、幼少期から音楽教育が充実していました。「父はオーディオ好きでした。いつも大音量で音楽がかかっていました」。クラシック音楽(よく覚えているのはベートーヴェンとモーツァルト)を最初に彼女に聞かせたのは父親でした。両親はフランスに何年か留学しており、よくフランスのポップ・ミュージックを聞いていました。「そのせいで、私は学校で全然かっこよくなかったんですよ」。彼女は笑いながら言います。「誰もフランスの音楽なんて聴いていませんでした」

彼女が初めてアメリカのヒップホップやR&Bと出会ったのは、中学校のパーティーでのこと。「すべてが米国の曲で、それまで聞いたことのないものばかりでした。みんな声を合わせて歌おうとするのです。私は何が起きているのかまったくわかりませんでした。世間知らずだったんですね」。その状況はすぐに変わりました。彼女はインターネットからYouTubeにアクセスし、好きな音楽を発掘するようになりました。そして、そのプロセスで突然出会ったジャンルの、星の数ほどある広範囲な情報に興味を引かれていったのです。「私はメタリカの大ファンになりました。10代だったからだと思います。そこにあったのは怒りでしたが、私は数多くのロックやヘヴィ・メタルにのめり込みました」。音楽の民主化におけるインターネットの役割は、よく文書化(そして討論)され話題になります。彼女の場合、他の方法では容易にアクセスできなかった外国の音楽に、本当の意味で手が届くようになったのでした。

世界中にいる数多くのアマチュアミュージシャンたちと同じように、彼女も楽譜を無料でダウンロードし、ヤマハのピアノで弾き方を学んでいきました。「それは私の初めてのピアノでした。それからずっと、ヤマハの楽器を愛用しています。間違いのない楽器ですから」。そうして、彼女は言葉の壁を越えた音楽という世界全体に触れるようになりました。「YouTubeでカバーが本格的にはやり始めたのもそのころです。人々は突然、好きな曲のピアノやギターのパートを弾けるようになったのです」。Ed Sheeran、Shawn Mendes、Justin Bieber(Chris Brownの「With You」のカバーで有名になった)などのスターを生んだ時代でした。しかし、ポピュラー音楽の独自のカバーを夢中で探すうち、彼女はまぎれもなく理不尽なことに気がつきました。「アラブ系のミュージシャンの姿を全然見かけないことに気がついたのです。いつも米国やイギリス、ヨーロッパの誰かなんです。私のような人間がカバーを演奏しているのを見たことがありませんでした」。そこで2010年、16歳になったDandachi氏は、自身のYouTubeチャンネルを立ち上げたのです。

想像に難くないとはいえ、思いがけないことが起こりました。YouTubeというプラットフォームが彼女自身の音楽的視野を広げ、さらに、他の人々に音楽の知識を与えるようになったのです。友人や家族とピアノの上達具合を共有するために始めた何げない場所が、徐々にコミュニティーを形成し、音楽教育の民主化のためのツールとなったのです。アルジェリアの歌手Cheb MamiをフィーチャーしたStingの「Desert Rose」などをカバーした自作のピアノ作品を投稿すると、彼女は肯定的なコメントを受けるようになりました。「コメントのほとんどは、『なんということだ、サウジにピアノを弾く女性がいるなんて。信じられない、かっこいい』などというもので、ただもううれしくて、もっとやりたくなったのです」。そこで彼女は、他の人々が自宅で練習できるようなチュートリアルを考え出し、アップロードするようになりました。「『私が持っている知識を、誰かと分かち合いたい』と思っただけなんですよ」

[写真] Nadia Dandachiさん

Dandachi氏自身が受けてきた音楽教育では、女性が前面に出て活躍するということは、ずっとおとぎ話であり続けていました。指導を受けた2人のピアノ教師以外に、彼女には憧れの存在となる人はいなかったのです。「真にロールモデルとなる女性はいませんでした」。彼女は打ち明けます。今日に至るまで、音楽業界におけるジェンダー平等はまだ十分ではありません。世界で最も人気を集めるアーティストの78%が男性で※1、音楽プロデューサーの男女比が半々になるには90年かかる※2といわれています。黒人女性や有色人種の女性にとって、この数字はさらにハードルが高いものになるでしょう。彼女たちを阻む障害は体系的なものです。「ほとんど男性が支配している業界なのです」。彼女はこう述べます。「そして、部屋の中に女性が一人だけというのは居心地が悪いものです」。彼女は、そうした課題を見える形で示していくことが、より公平な創造の場に向けて、音楽界の進む道を変えていくことになると考えます。そして、彼女自身のオンラインでの存在が、その一翼を担えるのであれば、非常に名誉なことだと言います。「より多くの女性が現われれば現れるほど、他の女性ミュージシャンたちが、そこが自分たちのための場所であると感じるようになるでしょう。私は、若い女の子たちにもっと自信をもって、と励ましたいのです。そして、彼女たち自身がその場所に踏み出す力を与えたいのです」

YouTubeのチャンネルを開設してからこの10年で、Dandachi氏は、5万7,400人にも上るチャンネル登録者を集めてきました。その多くは他のアラブ諸国やサウジアラビアの女性たちです。彼女はそれを「決めつけのない」場所として育て、他の女性ミュージシャンが進歩や創造性を共有し、議論することを目指してきました。「私は、女性たちが学び、音楽的才能を探っていける場所に案内したいと願ってきました」。彼女は簡単なピアノレッスンやチュートリアルをアラビア語で作成しました。そして、伝統的な西洋音楽教育から人々を遠ざけ、時におじけづかせるような専門用語を使わないようにしました。「なんだか外国語のようで、複雑に感じるかもしれませんから。完全にシンプルなものにしたかったのです。言葉を壁にしたくありませんでした」

しかし、Dandachi氏が特に望んでいるのは、次世代のコンサートピアニストを養成したり、次世代のモーツァルトを生み出したりすることよりも、音楽が彼女に与えた自由な感覚を他の人たちに伝えたいということなのです。音楽は、人生においてセラピーのようなものであると同時に、ここに属しているという感覚を与えてくれる、と彼女は語ります。実際、学校でいじめを受けた時も、自分のアイデンティティーを求めていた時も、そして4年前、医学の道を究めるためベルリンに移住した際にも、音楽が安らぎの場所として寄り添ってくれました。「音楽の中にいると、私はいつもエネルギーや感情、いら立ちを解き放つことができました。私は音楽を愛しています。そして心から、皆さんに音楽を勧めたいと思うのです。音楽は、本当は自分自身のために奏でるものです。それは、自分の感情に向き合い、心を整える時間なのです」

[写真] Nadia Dandachiさん

そして、医師として働くことを通して、彼女は音楽の認知的効果に関する理解の幅を広げました。その知識はまた、実践を大切にしようという思いを深めることになりました。「音楽を学ぶ子どもたちは、学業においても優秀であることを示す医学的な研究結果があります。数学や科学でよい成績を取り、記憶力が良くなるともいわれています。認知症の患者の多くは言葉を忘れ、質問に答えることができなくなりますが、子どものころ好きだった曲を弾くと、歌詞を思い出してピアノを演奏するようになることもあります。本当に驚くべきことです。音楽がいかに可能性を持っているかがわかります」

天性によるものと職業的なものという、2つの方向からの音楽との関わりを通して、彼女は音楽が持つ豊かで多面的な可能性を深く理解し、高く評価してきました。音楽は創造の場としてだけではなく、発達段階の子どもたちに精神と身体の両面で影響を与えます。それを目の当たりにしてきたDandachi氏にとって、女性たちが自分を信じられない現状は何より心が痛むものとなったのです。「女性は、自分で自分を判断してしまう傾向があります。『私はこれでいいのだろうか?』と自問してしまうのです。しかし、私は、こうメッセージを送りたいのです。何かを期待することをやめて、自分の好きなことをやり続けましょう。そしてそれは、心にもたらされる楽しさや幸せのためにやるのです、と。情熱を傾ける何かがあるなら、それがすべてでいいと思います。結果は後からわかることですから」

自分自身を過小評価して苦しんでいる女性ミュージシャンもいます。Dandachi氏は、次の世代にはできるかぎり、もっと自信をつけさせてあげたいと考えています。特に、音楽の世界に入っていこうとする有色人種の女性、サウジアラビアの女性たちの目の前には、経済的、教育的、文化的障壁が立ちはだかります。「恐れてはいけません。私も人の意見を気にして何度もやめようと思いました。怖かったですから。でも私は、好きなことをして、それがポジティブなもので、それを前面に出していけば、いつもそこから恩恵が受けられると信じています。すぐにではなくても、いつか必ず。私はもっともっと多くの女性たちが恐怖心と立ち向かい、スタジオにやってきて、批判されることなく自分の好きなことを追求できる、その姿を見ることを心から望んでいます」

  • 1『Men make the music: Study reveals that women’s voices are missing from popular charts』からの統計
  • 2『Inclusion in the Recording Studio? Gender and Race/Ethnicity of Artists, Songwriters & Producers across 800 Popular Songs from 2012-2019』からの統計

文/Harriet Shepherd

音楽とカルチャーを専門とするライター兼編集者。W Magazine、Vogue、i-D、Dazed、The Face、Resident Advisor、032cなどで活躍。ベルリンの年2回発行の雑誌「INDIE」の編集ディレクターを務める。

View Dr. Nadia's Journey